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中学の同級生・土肥孝夫君は親戚だった!

酒井 寿紀

60年以上経って親戚と判明!

私の麻布中学の同級生に土肥孝夫君という人がいて、休み時間にはよく相撲を取っていっしょに遊んでいたが、中学2年の遠足で相模湖へ行った時、遊覧船が転覆して彼は亡くなってしまった。それから60年以上経って、彼が実は私の親戚(縁戚だが)だったということが判明し、大変驚いた。

右の写真は相模湖事件の翌年に麻布学園が出版した「追悼録」(1)に掲載されたものである。

以下は、いくつかの偶然が重なってこの「判明」に至ったという話である。「世の中にはこういうこともあるのだ」ということをお分かり頂ければ幸いである。

私にとっての出来事の順を追って記そう。

   

相撲好きは祖父譲り?

土肥孝夫君とは中学2年の時に同じクラスになり、しかも通路を挟んで隣同士の席になった。家も同じ方面だったため、行き帰りもいっしょだったことも多かったのではないかと思うが、あまり記憶にない。

思い出すのは、彼が大変な相撲好きで、相撲に詳しく、授業の合間に校庭の砂場でよくいっしょに相撲を取ったことだ。当時はまだサッカー等他のスポーツが流行り出す前だったので、相撲仲間には他の生徒もいたのだろうが、他の生徒のことはあまり思い出せない。

相撲と言っても、当時はまだテレビ受像機が普及する前で、ラジオにかじりついて実況放送を聞いていた。横綱としては、東富士、千代の山、鏡里、吉葉山等が活躍していた時代である。

土肥君から、お祖父さんも大変な相撲好きだとよく聞いていた。「追悼録」に、当時高校1年だったお姉さんが次のように書いている(1)

「ターちゃん(孝夫君のこと)の本棚には相撲の番付、星取り表や相撲の雑誌、力士のサインブック等大切に置いてあった。・・・祖父も相撲がお好きなので、本場所が始まると祖父とターちゃんとの往来が激しくなる。祖父が孝夫がいるかとお尋ねになるので、何御用ですかと言うと、お前ではわからん孝夫だ孝夫だとおっしゃる時はきっとお相撲の事だった。相撲の放送が始まるとラジオの前にかじりついて聞いている真剣な顔が忘れられない。・・・」

右の写真は「追悼録」に掲載されているご家族の写真である。

後列:左が父親の淳一郎さん、中央が祖父の章司さん、右が母親、

中列:左端が妹の都喜子さん、右端が祖母の孝子さん、

前列:中央が孝夫君、右が姉の博子さん、と思われる。

米国の軍人の来訪を受けた時の写真のようだ。1951年1月というので、事件の3年あまり前のものである。

   

事件の日

忘れもしない1954年10月8日、中学2年だったわれわれは、バスを連ねて高尾山、相模湖方面へ遠足に出かけた。

みんなで高尾山に登ったのは覚えているが、その後何をしたかはよく覚えていない。

後から聞いた話では、その後自由時間があったようで、何人かから相模湖の遊覧船に乗りたいという話が出たようだ。希望者を募ると80人ぐらいいたという。そこで、茶店のおばさんの薦めもあって、希望者と二人の先生が遊覧船に乗ることになったという。

小さい船だったので、先生が心配して、「定員は何人だ?」と聞いたところ、「定員は60人だが、中学生なら80人ぐらい大丈夫だ。いつもそれぐらい乗っている」と言われたので、80人足らずが乗ることになったという。しかし、船は出発するとすぐ浸水をはじめ、10分ぐらいで沈んでしまい、22人の生徒が亡くなった。

私は何をしていたのか記憶にないのだが、遊覧船に乗る話が出たことも、希望者を募ったことも、まったく知らなかった。どうやらその頃から「はぐれガラス」だったようだ。この「はぐれガラス」のおかげで助かった。

帰る時間になったのでバスに乗っていると、舟が転覆したらしいという話がどこからともなく伝わってきた。「バスを降りて旅館に来てくれ」と言われて行くと、大勢の生徒が旅館の浴衣を着ていて、興奮して大声でその時の状況を話している者、隅で泣いている者等さまざまだった。

当日は天気が悪く、午前中高尾山に登った時はまだ雨は降ってなかったが、午後から小雨が降りだし、うすら寒い天気になった。だんだん雨が強くなってくる甲州街道をわれわれはバスで東京へと向かった。この時はまだ誰が遭難したのかまったく分からなかったが、誰も話す者もなく、バス内の空気は行きとはまったく違った何とも陰鬱なものだった。

バスが港区の学校に着くと、そこには持ち主がいなくなった土肥君の荷物が残っていたので、取りあえず私がそれを持ってバスを降りた。遊覧船に乗っていて助かった人も多く、彼らは浴衣に着替えて旅館にいたので、その時はまだ土肥君がどうなったのか、私には分かっていなかった。

学校には多くの父兄や報道機関が駆け付けて、ごったがえしていた。私の父親も勤め先から立ち寄っていた。

この時ばったりと孝夫君のお父さんと会うことになった。私は初対面で、誰かに言われなければ分かるわけがないので、誰かが教えてくれたのだと思う。私が携えていた孝夫君の荷物を渡すと、お父さんは発する言葉もなく、下を向いて必死に何かに耐えようとしているお姿だった。多分既に現地から詳しい情報が入っていたのだと思う。

私は、突然子を失った悲しみなど当時はあまり分かっていなかったので、言うべき言葉も知らず、黙ってその場を後にした。

この事件で、教室で私の左右両隣の生徒(その一人が孝夫君)と、一つ置いて前の席に並んで座っていた生徒が同時に亡くなってしまった。当時はそれほど感じなかったが、年月が経てば経つほど、22人の遭難者の親に対する事件の重みが身に染みて感じられるようになった。

四代目皮膚科の夢消える

土肥家が代々皮膚科の医者で、父親は慈恵医大の皮膚科の先生で、自宅でも開業しているという話は孝夫君から聞いて知っていた。お姉さんが「追悼録」に、「四代目の皮膚科の医者にと期待していらした父の落胆」(1)と書かれているのを読んで、何代も前から続いている医者の家柄なのだと知った。

その後50年以上経って、インターネットでいろいろな情報を容易に入手できるようになり、孝夫君の曽祖父の土肥慶蔵という人は、若い時にドイツに留学して皮膚科学を日本に持ち帰り、日本の近代皮膚科学の草分けのような人だと知って大変驚いた。単に4代目の医者というのとは訳が違う。

そして、この方の出身地は福井県の武生だという。当時は私と武生の関係をろくに知らなかったので、たいして気にも留めなかったが、頭の片隅に残っていたようだ。それが後で役立つことになる。

私の曽祖母の実家も武生

話変わって、私の先祖の話になる。

私の武生の先祖については、今までに、「福井と滋賀(2)、「福井松平家、本多富正家と本多鼎介家(3)、「越前本多家・追補(4)、「本多九郎左衛門家(5)に書いたので、詳しくはこれらをご参照願いたい。しかし、これらの書き物は判明した事柄を順次書いたものなので、全体をまとめて理解するには非常に分かりづらいと思う。そのため、内容的には重複するが、ここに概略を記しておこう。

私の曽祖母(母の母の母)の父親が福井県の武生の出身で、明治になって福井県議会ができた時、その初代議長を務めたということは聞いていた。しかしこの人がどういう家の出身かまったく聞いたことがなく、書いたものもなかった。私の両親も祖父母も親類の人達もたぶんほとんど知らなかったのだと思う。

本多鼎介は少しは知られた人のようなので、福井県の博物館や資料館に行けば何か分かるかもしれないと思い、70歳をはるかに過ぎた2016年に初めて福井市に行ってみた。しかし、資料館で初めてこの人の写真を見ることができただけで、他に何も得ることがなかった。

このことを、「福井と滋賀」(2)に書いておいたところ、約1年経って、突然知らない人から「もしかしたら親戚かも」というメールをもらって驚いた。メールを交換すると、共通の親戚の名前を何人か確認でき、親戚に間違いないようだ。そして、もっと驚いたのが、先祖が武生の出身者を3人知っていて、今でもお互いに連絡があるということだった。しかも、その中には歴史や文学に詳しい人もいて、武生の歴史や先祖のことを調べているという。

こうして知り合いになった人たちの家系上のつながりを記したのが「武生関係者家系図」(PDF)である。

本多敏雄さん、遠藤恒雄さん、川瀬健一さんと私は、すべて平野清兵衛という人の玄孫またはその子で、お互いに血縁関係のある親戚である。竹内正彦さんは、川瀬健一さんとは血縁関係があるが、他の人とは縁戚関係になる。なお、この系図には後で判明した土肥家との関係も記載しておいた。

私は、本多鼎介は福井藩の家老で府中の領主であった同姓の本多富正家と何か関係があったのではないかという疑問を持っていた。しかし、何の資料も持たず、資料があったとしてもそれを読み解く力もない私には、まったく手も足も出ない疑問だった。この疑問を、こうして知り合いになった人達に聞いてみたところ、江戸時代の古文書や墓石の碑文を熱心に調べてくれて、約2年かかったが、全体がほぼ判明した。

それを要約すると次の通りである。

・ 1601年、徳川家康の次男の結城秀康が初代越前藩主になった時、家康の家臣の本多富正がその付家老になった。

・ 本多富正家は幕末まで越前藩の家老を務め、越前府中(後年の武生)の領主だった。

・ 初代本多九郎左衛門は本多富正の従兄弟で、本多富正が越前藩に入った時その家臣になり、その関係は幕末まで続いた。

・ 本多鼎介は第9代本多九郎左衛門である。

・ 第3代九郎左衛門は、実際は九郎左衛門家よりさらに本多富正家に近い本多十左衛門という人の妾の子だった。

・ 第3代以外の九郎左衛門はすべて実子が九郎左衛門家を継いだものと思われる。

・ 九郎左衛門家は府中領では家老の扱いで、石高は江戸初期には200石だが、幕末には100石だった。

・ 第8代九郎左衛門の役職は府中領の寺社町奉行だった。

こうして、2018年末には私の疑問がほぼ解決した。 

武生の大鳥居に「土肥慶蔵」

私は武生に行ったことがなかった。疑問もおおかた晴れたので、武生を一度は訪れたいと思い、2019年5月、京都旅行の帰りに女房と二人で武生に立ち寄った。

先ず、本多九郎左衛門家代々の墓がある金剛院を訪れ、墓参した。住職の諏訪普現さんに事前に連絡しておいたら、駅まで迎えに来てくれた。九郎左衛門家の墓地の中央に、本多鼎介の孫にあたる本多重雄さんが1920年に建てた「累世之墓」と書かれたひときわ大きい墓石があり、その前で住職さんにお経をあげて頂いた。

住職さんは1949年に神奈川県で生まれ、駒沢大学を出た後永平寺で修業され、1990年からこの寺の住職を務めているという方だった(6)

   

金剛院を出た後、本多家に関する資料が何かあるかと、武生公会堂記念館というところに行ってみたが、生憎改装中で何も見ることができなかった。しかたがないので、初めての武生の街を少し歩いてみることにした。

すると、「総社大神宮」という大きい神社があったので立ち寄ってみた。その帰りがけに、そこの大きな鳥居の柱の裏側に、左の写真のように、「土肥慶蔵」と大きな字で彫られているのを見つけて、びっくりした。「そういえば、孝夫君の曽祖父の土肥慶蔵さんはたしか武生の出身だったなあ」と思い出したが、まさか大鳥居に名前が刻まれるような大変な方とは思っていなかった。

その日は5月の末だったがかなり暑く、歩き回るとのどが渇いてきた。近くに和菓子屋があり、ちょっと休めそうだったので入って一休みした。

そこの年配の女性に、「武生は初めて来たけど、静かでいいところですね」と言うと、「静かすぎるのが問題で・・・」と言う。ここも、他の地方都市同様、街の活性化が課題のようだった。

「鳥居の柱に『土肥慶蔵』とあるのを見つけて驚いた。この人は中学の友達の曽祖父なんです」と話すと、「土肥慶蔵はこの辺では有名な人で、すぐ近くのビルの前に石碑がありますよ」と言う。帰りがけに、場所を教えてもらって寄ってきた。右はそこで撮った写真である。

   

何と土肥家は私の縁戚だった!?

帰京後、金剛院訪問を本多家の歴史を調べてくれたメンバーにメールで報告し、武生の街で中学時代の友達の曽祖父の名前を見つけて驚いたと話した。すると、みんな土肥慶蔵のことをよく知っていて、「酒井さんが土肥家と縁があったとは知らなかった!」と大変驚かれたので、こっちもびっくりしてしまった。

さらに驚いたのは、メンバーの一人の川瀬健一さんの曽祖父の斎藤修一郎という方は土肥慶蔵の又従弟だというのだ。(「武生関係者家系図」参照)

川瀬健一さんは斎藤修一郎さんの曽孫なので、もし孝夫君が土肥慶蔵の曽孫なら、川瀬健一さんと孝夫君は血のつながった親戚ということになる。しかし、これはちょっと違うようだ。人事興信録の土肥慶蔵の記事によると、孝夫君の祖父の土肥章司さんは旧姓を栗田といい、土肥慶蔵の実子ではなく門人で、土肥慶蔵の姪と結婚したという(7)。前掲の土肥家のご家族の写真で孝夫君の祖母と思われる方が土肥慶蔵の姪ということになる。

もしこれが本当なら、孝夫君は土肥慶蔵の血縁上の曽孫ではなく、土肥慶蔵の兄弟姉妹の「誰か」の曽孫ということになる。家系図でこの「誰か」を「?」と記したのはそのためである。この「誰か」は慶蔵の兄の石渡秀實その人かも知れない。

この点は確認を要するが、いずれにしてもこの「誰か」を介して、孝夫君が川瀬健一さんと血縁的につながっていることは間違いないようだ。

それにしても、人は意外なところでつながっているものだとつくづく思う。

 

[謝辞] いつも武生の歴史の調査メンバーの方々には大変お世話になっていますが、今回は特に、川瀬健一さんと竹内正彦さんに貴重な情報を提供して頂き、その検討に協力して頂きました。厚くお礼申し上げます。

 

[関連記事]

(1) 「追悼録」、麻布学園、1955年6月1日(非売品)

(2) 酒井寿紀、「福井と滋賀」、2016年8月

(3) 酒井寿紀、「福井松平家、本多富正家と本多鼎介家」、2017年6月15日

(4) 酒井寿紀、「越前本多家・追補」、2018年4月27日

(5) 酒井寿紀、「本多九郎左衛門家」、2019年1月14日

(6) 「『ぼくはお坊さんになった』 諏訪ふげん」、書肆侃侃房

(7) 「土肥慶藏 (第4版) - 『人事興信録』データベース (1915年1月)」、名古屋大学大学院法学研究科

(完) 2020年4月11日


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