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本多九郎左衛門家 (Rev. 1)

「 福井松平家、本多富正家と本多鼎介家」続編2

酒井 寿紀

はじめに

私の高祖父に当たる本多鼎介という人が福井県の県会議長をしていたというので、3年前の2016年に福井県に行った時、福井市の博物館に立ち寄ってみた。しかし、この人の顔写真を初めて見ることができたぐらいで、ろくに何も分からなかった。その時の話を「福井と滋賀(1)という小文にして私のウェブサイトに掲載しておいた。

その後別に何も起きなかったが、1年近く経って、突然「もしかすると親戚かも・・・」というメールをもらって驚いた。遠藤恒雄さんという全く聞いたこともない方からだったが、何回かメールを交換すると共通の親戚の名前が何人か出てくるので、親戚に間違いなさそうだ。遠藤さんは本多敏雄さんという私の知らない親戚の方とも音信があるというので、この方も含めていっしょに食事をすることにした。一昨年の2017年4月のことである。

その後遠藤さんから、川瀬健一さん、竹内正彦さんという、やはり先祖が福井県の旧武生市出身の方を紹介して頂いた。この二人は武生市の歴史についていろいろ資料をお持ちで調べていた。その後、我々4人で調べて判明したことを下記2編に記した。

福井松平家、本多富正家と本多鼎介家・・・三家に江戸時代の家督相続の実態を見る」(2017年6月発行)(2)

越前本多家・追補・・・「福井松平家、本多富正家と本多鼎介家」続編」(2018年4月発行)(3)

4人で調べたといっても、門外漢の私は問題を提起し、結果をまとめただけで、議論についてはもっぱら聞き役だった。

こうして、前編にも記したように、越前の本多家の先祖について分かったのが下記系図の黒字の部分である。本多鼎介はこの系図に続く「9代九郎左衛門」に当たる。

前編と重複するが主要人物について補足すると、下図の「富正」は、結城秀康が越前藩主として越前に入国した際、家康に付家老として任命された人である。この家は幕末まで続き、明治維新後男爵になった。また「重次」は「作左衛門」とも呼ばれ、「一筆啓上、火の用心」の手紙で有名な人だ。その子の「成重」は丸岡藩の藩主になった。

さて、ここまでの調査で、「2代九郎左衛門」には後継ぎがなく、「十左衛門」の妾腹の子を養子にしたことが分かったが、この十左衛門がどの本多家とどうつながるのかが分からなかった。その後の調査で判明したのが下記の系図の朱記部分で、本編で取り上げる。

3代九郎左衛門は十左衛門の妾腹の子

前編にも、3代九郎左衛門は「十左衛門の妾腹の子」と記載したが、実はこれがなかなか分からなかった。

「本多(富正)家家臣録」の中に「貞享三年丙寅年(1686年)御礼之次第並びに半減之一件」という文書があり、その中の3代九郎左衛門の項目に右図のような記述がある。私には全く読めないが、これは「二百石 本多九郎左衛門 吉田平太左衛門へ御預之足軽減也、了雲養子、実(ハ)十左衛門妾腹也」と読むのが最も妥当だという。ここに「了雲」とあるのは2代九郎左衛門の別名と判断される。

このうち朱記した「実(ハ)十左衛門」の部分が従来は「亥左衛門」と読まれていて、いくら捜しても越前藩にそういう名前の人が見当たらず、調査が行き詰まっていた。「十左衛門」ならこの時代の本多家家臣録にも登場するし、その墓地が武生の金剛院の九郎左衛門家の墓地に隣接しているので、養子をもらう可能性も充分あったと思われる(4)

では、この十左衛門がどういう人かが次の問題だ。

 

十左衛門は源五左衛門の次男

武生の士族の子孫に神門精一郎(コウド・セイイチロウ、1909年生)、神門酔生(コウド・スイセイ、1916年生)という兄弟がいて武生の歴史を調べ、書物にしている。この兄弟が1974年に「土生(ハブ)滝人脈人別明細解誌」という書籍を著作・出版している。「土生(・)滝」というのは兄弟の母親の実家で、兄弟はこの家系を調べて書物にしたようだ。

この書籍に、右図に示されているように、「富正の妹は三河の小林久左衛門に嫁ぎ、本多源五左衛門を生んだ。その源五左衛門は後に越前の府中(後の武生)に来て、400石で富正に仕えた。その次男の(本多)十左衛門は(富正の子の)昌長の家老を勤め、以後代々藩の重臣であった」と書かれている。

この書物が依拠した文献が不明なのが弱点だが、現在のところ十左衛門の先祖についての他の史料が見当たらず、神門兄弟の家には大量の史料があったことは確からしいので、十左衛門の出自については当面本書の記述を採用することにする。

前編に記した8代九郎左衛門の回顧録も神門酔生が書物にしたもので、講談調の読み物としては面白いが、どこまでが史実かについては若干疑問が残る。

しかし、源五左衛門と富正の関係についてはもう少し確かな記録が残っている。

 

源五左衛門は本多富正の甥

「本多家譜」という本多富正家の手書きの系図が東京大学史料編纂所に保管されていている。そして、それを活字化した「本多富正家系譜」を越前市立図書館が所蔵している。内容は手書きのものとほとんど同じである。その本多富正とその兄弟姉妹の部分(実際には姉妹しかいない)を右図に示す。(拡大図)

これによると、富正の3番目の妹(右図の赤枠内)は、「三河の大平村の小林九左衛門に嫁した。その子の(初代)本多源五左衛門は富正に従って(越前)府中に住した。その子の(2代)源五左衛門は(越前藩3代藩主の)忠昌に仕え300石を禄した」ということである。

従って、前出の「土生滝人脈人別明細解誌」に記載されている十左衛門は、この(初代)源五左衛門の次男で、(2代)源五左衛門の弟になる人だと思われる。

 

2代九郎左衛門は又従兄弟の孫を養子にもらった

これらの関係をまとめて本多富正家の系図に追記したものが、冒頭の「越前本多家系図」の朱記の部分だ。

初代九郎左衛門と本多富正は従兄弟の関係である。従って、初代九郎左衛門は富正の妹とも「いとこ同士」だったことになる。

ということは、2代九郎左衛門は初代源五左衛門と又従兄弟の関係で、2代九郎左衛門は又従兄弟の孫を養子にもらったことになる。

こうして、3代九郎左衛門は富正の父親・重富の血縁上の子孫であることが判明した。九郎左衛門家では他に養子を取った形跡がないため、3代以降の九郎左衛門家もすべて重富の血縁上の子孫だと思われる。

残る疑問は?

「土生人脈譜」の情報源は?

上にも記したように、これが現在不明で、「十左衛門は初代源五左衛門の次男」ということが否定されると、本編の話はほとんど否定されることになる。

本件の教訓は、「歴史を調査してまとめる時は、必ず情報源を明確にしておくこと」、そして、「それ以上さかのぼれない『一次史料』は極力図書館等に保管を委託しておくこと」である。

十左衛門家のその後は?

十左衛門の妾の子が九郎左衛門家を継いだということだが、十左衛門家そのものはその後どうなったのだろうか? 「本多(富正)家家臣録」によると、十左衛門という名前の人は1744年まで記録されていて、次の記録の1792年以降は登場しない。従って、十左衛門家は少なくとも1744年までは続いたと思われる。

1792年からは十左衛門に代って「本多源吾」という人が登場する。6代と9代の本多源吾の墓石が金剛院の十左衛門家の墓地の一角にあることから、十左衛門の子孫が、本家の源五左衛門家から「源」の字をもらい、十左衛門家を継いだ可能性が考えられるが、詳しいいきさつは分からない。しかし、十左衛門家の墓地に「源」の付く人がその後何人か葬られているのは事実だ(4)

そして、最後に葬られているのは「9代本多源吾重経」の奥さんと思われる人で、没年は大正5年(1916年)である(4)。この家系の方が見つかれば、十左衛門家と源五左衛門家の関係、ひいては富正家との関係もはっきりするかも知れない。

源五左衛門家のその後は?

同様に源五左衛門家のその後も分かっていない。2代源五左衛門は越前本藩に仕えていたということだが、その後どうなったのだろうか? これは越前藩の家臣録などを調べれば分かるかも知れない。この線から源五左衛門家と十左衛門家の関係もはっきりするかも知れない。 

成重との関係は?

もう一つの疑問は、本多鼎介家の家系に、その昔当家は本多成重家と関係があったようだという話が代々伝わっていることである。現在のところその根拠が明確でなく、信憑性も疑問だが、それならば、なぜこのような話が代々伝わってきたのだろうか? 何か誤解を招くような出来事でもあったのだろうか?

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いずれにしても、これらの疑問がすべて解決し、完全に霧が晴れるまでには、まだ多少時間がかかりそうだ。

インターネットの威力

それにしても、もし私が福井旅行の話をウェブで公開しなかったら、そして、もし遠藤恒雄さんがそれを目にして私にメールをくれることがなかったら、ここに記載したような越前本多家の歴史はまったく分からずじまいだっただろう。

そして、関東、関西、中部地方に散らばって住んでいる我々4人が、最繁時は日に何回もメールで意見を交換して共同作業(?)を進めてきた。まったく専門外の私はほとんど聞き役で、時々口をはさんだり、疑問を投げかけたりするだけだったが・・・

こういうことができたのも、インターネットのおかげである。インターネットは、ノーベル賞級の研究の推進だけでなく、こういう「情報捜し」、「人捜し」、「共同作業の推進」にも大変な威力を発揮することを肌で感じることができた。

 

謝辞・家系図

前編に引き続き、遠藤恒雄さん、川瀬健一さん、竹内正彦さんには貴重な情報を提供頂き、また調査・検討にご協力頂き、大変お世話になりました。ここに厚くお礼申し上げます。

ご参考までに本多家調査メンバー家系図(PDF)を掲載しておきます。

 

[関連記事]

(1) 酒井 寿紀、「福井と滋賀」、2016年8月、Tosky World

(2) 酒井 寿紀、「福井松平家、本多富正家と本多鼎介家・・・三家に江戸時代の家督相続の実態を見る」、2017年6月15日、Tosky World

(3) 酒井 寿紀、「越前本多家・追補・・・『福井松平家、本多富正家と本多鼎介家』続編」、2018年4月27日、Tosky World

(4) 「金剛院 本多九郎左衛門家墓所詳細

 

[後記]

Rev. 1 「本多家調査メンバー家系図」を追加。(2019/1/26)

(完) 2019年1月14日


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