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福井松平家、本多富正家と本多鼎介家

三家に江戸時代の家督相続の実態を見る

酒井 寿紀

福井に先祖を訪ねて

「もしかすると親戚かも?」

私の高祖父の一人、本多鼎介について何か分からないかと、昨年(2016年)5月福井市に行って資料館などで調べてみた。しかし、たいしたことは何も分からなかった。その時のことを「福井と滋賀」に書いて、ウェブで誰でも読めるようにしておいた。

その後、別に何も起きなかった。しかし、1年近く経った今年の3月、突然、「もしかすると親戚かも知れません」というメールを受け取って驚いた。本多鼎介の奥さんの仲さんの兄の(注1)曽孫に当たる遠藤恒雄さんという方からだった。そしてさらに驚いたことに、本多鼎介の唯一人の息子で、東京日日新聞の社長などを務めた本多精一の孫に当たる本多敏雄さんという方と今でも音信があるということだった。

本多鼎介には本多精一の他に娘が4人いて、長女の初枝が私の曽祖母になる。他の3人の娘さんの嫁ぎ先の家のことは、多少伝え聞いていた。特に3女が嫁いだ大江家とはずっと付き合いがあった。ところが、不思議なことに、本多家を継いだ本多精一さんの子孫についてはまったく何も聞いたことがなかった。思うに、初枝さんは結婚後も姉妹とは会ったり、手紙を交換したりしていたが、弟である精一さんの家とはあまり付き合いがなかったのかも知れない。他の家でも、姉妹間の方が兄弟間より、はるかに情報の伝達量が多いように思う。

とにかく一度会って話をしようということになり、4月某日、本多敏雄さん、遠藤恒雄さん、初枝さんの孫の一人の龍造寺禮子さん、私と家内の5人で食事をした。同じ先祖から出た我々だが、持っている古い写真や、関係する人の情報には、重複しないものも多く、貴重な情報交換ができた。

本多富正家と本多鼎介家は同祖?

「福井と滋賀」にも記したように、福井藩には代々家老を務めた本多富正家という家があり、武生の領主でもあった。本多鼎介家はその家臣だったという。私の最大の関心事は、本多富正家と本多鼎介家には何らかの親族関係があったのではなかろうか、ということだった。

本多精一の長男の本多重雄さん(敏雄さんの父親)は、本多富正家と本多鼎介家の墓があった武生の龍泉寺の墓碑に「我が本多は富正家と同祖」と記したという。これが本当なら私の推測は当たっていたわけだ。しかし、いつ、どのようにして両家が分かれたのかはまったく分からない。

本多敏雄さん、遠藤恒雄さんも同じ疑問を持ち、資料をいろいろ調べておられた。そこで、私もそれらの資料をお借りして読むと、だいぶいろいろなことが分かってきた。

家老の本多富正家については、系図などを入手でき、かなり分かった。そして、同家は藩主の松平家と密接につながっていることが分かった。

 これら3家の関わり合いの一端をご紹介しよう。よく知られていて資料が豊富な福井松平家、資料がある程度残っている本多富正家、ごくわずかな資料しかない本多鼎介家の順に取り上げる。

福井松平家

2代将軍? 御四家筆頭?

福井藩の初代藩主・結城秀康は徳川家康の二男である。しかし、2代将軍になったのは三男の秀忠だ。若くして切腹させられた長男の信康は別にして、なぜ二男の秀康を差し置いて三男の秀忠が将軍家を継いだのだろうか? これはもちろん、秀吉の命によって、秀康が秀吉の養子(実態は人質)に取られたためだ。しかし、兄弟の順の重要性は現代とは大違いだったはずだ。秀忠を養子に出し、秀康が2代将軍となる可能性はなかったのだろうか?

後年、家康の9男・義直が尾張藩、10男・頼宣が紀州藩、11男・頼房が水戸藩に配され、いわゆる徳川御三家を形成する。しかし、彼らは秀康から見れば、はるかに年下の弟達だ。秀康を御三家並として御三家に加えれば、御四家になってしまって数が悪い。しかし、もしそうするなら、長幼の順から秀康は御四家筆頭になっていたかもしれない。

いったん養子に出されても、後で扱いが変わった例もある。秀忠の子の保科正之は、3代将軍・家光の弟で、次代から松平姓になった。家康の子の結城秀康も次代は松平姓になった。しかし、家康自身の子は本来徳川姓を名乗れたはずだ。福井藩主を御三家並に徳川姓に戻す可能性はなかったのだろうか?

また、長男による相続を重視して、兄弟間で子供を交換した例もある。「四国旅行」にも記したように、初代水戸藩主・頼房の長男・頼重は讃岐高松藩主になり、三男の光圀が水戸藩を継いだ。しかし、二人は息子を交換し、頼重の実子・綱條(つなえだ)が水戸藩の3代藩主になった。もしこのようなことが行われば、秀康の子が幕府の3代将軍になることになる。

実際には、そういうことは起きなかった。しかし、このことが幕末に至るまで、幕府と福井藩との関係の下地として、影響を及ぼし続けたと思わる節がある。

家臣団の対立を家康が裁く・・・越前騒動

1612年、2代藩主・忠直の時、福井松平家の家臣団が2派に分かれて争った越前騒動が勃発した。その一方の派閥の筆頭は御付家老の本多富正で、もう一方は家老・今村盛次の派閥だった。藩内の派閥抗争だったが、18歳(以下、年齢はすべて数え年)の忠直の手に負えなくなり、家康が直々に裁いた。本多富正は、当初形勢が悪かったが最終的に正当性が認められ、今村盛次は流罪に処された。

この騒動の結果、富正の従兄弟の本多成重が二人目の付家老として福井藩に遣わされた。家康の孫の忠直は、藩内の騒動を収められなかった訳だがお咎めがなく、逆に補佐役が強化された。幕府の福井藩に対する手厚い扱いを物語っている。

しかし、忠直はその後乱行を繰り返し、1623年、2代将軍・秀忠によって豊後へ配流された。それでも、福井松平家が改易になることはなかった。

藩主の正室、藩主が引き続いて自殺・・・4代藩主・光通

4代藩主・光通(みつみち)の正室は、高田藩主の娘だったが、男児を生むことができず、周りからの圧力に耐えかねて、1671年、36歳の時に自殺してしまった。光通本人も3年後の1674年、39歳で自殺した。この死を契機に、後継者問題が延々と続くことになる。

光通は遺言で弟の昌親を後継者に指名した。これが家中の対立を招き、問題は幕府まで持ち込まれたが、最終的に昌親が5代藩主として認められた。

しかし、藩政は落ち着かず、2年後の1676年、昌親は兄の子の綱昌に家督を譲って隠居してしまった。

藩主が発狂して蟄居、全藩で収入が半分に・・・6代藩主・綱昌

綱昌は藩政にうまく対応できず、側近を殺害したりしたため発狂とみなされ、1686年、幕府によって江戸鳥越の屋敷に蟄居となった。

普通なら、改易になってもおかしくないところだが、5代藩主だった昌親が、名を吉品(よしのり)と改めて、7代藩主として復帰することが認められた。

しかし、幕府はペナルティなしで済ますわけにもいかず、藩の所領を50万石から25万石に半減することにした。これに伴い、本多富正家も4万石から2万石になった。(注3) 知行が半分になったので、「貞享(じょうきょう)の半知」と呼ばれる。知行が半減すれば、家臣の数も半分にする必要に迫られる。当時の福井藩には「リストラの嵐」が吹き荒れたことと思われる。

末期養子を事後承認・・・9代藩主・宗昌

8代藩主・吉邦が、1721年12月4日、嗣子を残さず死去したため、12月11日に甥の宗昌が跡を継ぎ、9代藩主になった。いわゆる末期養子で、幕府は一般には認めていなかったものである。ここでも、福井藩の特別扱いが読み取れる。

こういう事態の再発防止のため、男子がなかった宗昌に、藩主就任と同時に養嗣子を取らせることにし、前橋松平家の松平宗矩(むねのり)が養嗣子に決められた。宗矩は結城秀康の玄孫に当たる。1724年宗昌が没し、宗矩が10代藩主になった。幕府がいかに福井松平家の家系存続に努力したかが分かる。

将軍の子を藩主に迎える・・・15代藩主・斉善

宗矩にも実子ができなかったので、宗矩は将軍家一族から養子を迎えることを画策した(2)。9代将軍・家重は、自分の甥である一橋家の重昌を宗矩の養嗣子にし、この重昌が11代藩主になった。しかし重昌は、1758年に16歳で夭折した。そのため、その実弟の重富が後を継ぎ、12代藩主になった。

こうして、結城秀康以来続いた血統は絶え、8代将軍・吉宗から出た一橋家に引き継がれた。従って、結城秀康の血統は10代藩主・宗矩までで、11代以降の藩主は、家康までさかのぼらないと生物学的つながりがない。11代将軍・家斉は一橋家の出で重昌、重富の甥なので、福井松平家は将軍家のごく近い親戚になった。

14代藩主・斉承(なりつぐ)は嗣子を設けずに、1835年、25歳で没した。そのため、幕府は急遽、将軍・家斉の子の斉善(なりさわ)を養嗣子にし、15代藩主にした。ついに、福井藩は将軍の子を藩主に迎えたのだ。

しかし斉善は、3年後の1838年、世継ぎを設けずに19歳で死去してしまった。兄に当たる、時の将軍・家慶は、急遽従兄弟に当たる田安家の慶永(よしなが)を養子にして跡を継がせた。形を整えるため、斉善の公式な死亡日は実際より約1か月先延ばしされたという。

こうして、慶永は11歳で16代の藩主になった。後に春嶽を号し、幕末の四賢侯の一人と呼ばれるようになった人である。

本多富正家

結城秀康の付家老として福井に入る

本多富正が結城秀康の家臣として付けられたのは、1586年、秀康13歳、富正15歳の時だという(1)。この両家の関係は、結局幕末まで続くことになる。

1601年に秀康が福井藩に入封した時、富正は家康によって秀康の付家老に任命された。付家老というのは、将軍の身内が大名に任命された時、その大名を補佐するとともに、変なことをしないか監視する任務も負っていたようだ。従って、富正は家康に厚く信用されていたわけだ。

同年、富正は武生にあった越前府中城の城代に任命され、これが幕末まで続いた。

1606年、秀康が死ぬと、富正は殉死しようとしたという。ところが、家康によって追腹が厳禁され、殉死を思いとどまった。もしこの家康の厳命がなかったら、富正の一生はここで終わっていたかもしれない。追腹を禁じられたおかげで、富正はその後43年間、1649年まで生きることができた。

越前騒動で勝ち残る

前記のように、1612~1613年頃、福井藩の家臣団が2派に分かれて争った越前騒動が起き、富正は一方の派閥の領袖だった。抗争は藩内で決着がつかず、家康の前で裁かれることになった。最初は富正側の旗色が悪かったが、最終的に富正の正当性が認められたという。

時の藩主・忠直の力量不足を心配した家康は富正の従兄弟に当たる成重を2人目の付家老として福井藩に派遣した。成重はその後、1624年、越前丸岡藩の大名に取り立てられ、福井藩から独立した。この時、富正にも幕府から越前府中藩として独立してはどうかという打診があった。しかし、富正は秀康の恩義に反することはできないと固辞したという。富正は、まだ下剋上の時代の1572年の生まれだが、控え目な人柄の人だったようだ。

しかし、富正家はその後幕府によって、江戸城での控えの間の使用、江戸での屋敷の所有、籠に乗ったままでの関所の通過等、大名並みの扱いが認められた。このあいまいな位置づけが、明治になって大名に爵位が与えられ、越前府中藩がその対象から外れた際、武生の領民が決起して武生騒動を起こす原因になった。

一方、福井藩から独立した丸岡藩は、4代藩主・重益が暗愚で、家臣団の内紛を起こし、1695年に改易になってしまった。

富正には男子がなかったため、成重の二男・重看(しげみつ、志摩とも)を養子にもらった。ところが1614年、富正に実子・昌長が生まれたため、成重のもとに帰り、1626年、成重の所領から3,000石を分地されて、本多大膳(だいぜん)家という旗本になった。本多大膳家は幕末まで続き、幕府の御書院番などを務め、江戸に常駐していたという(3)

富正と成重は性格も考え方も違ったようだが、従兄弟同士として、それぞれの家の存続には協力し合ったことがよく分かる。江戸時代の士族にとって、これが最大の仕事だったのだろう。現代のサラリーマンのように、子供が学校を出たら、あとは就職も結婚も勝手にやってくれというのとは全く違うようだ。

1686年の「貞享の半知」の際、富正家の家禄は4万石から2万石に半減し、これが幕末まで続いた。

蟄居の前藩主・松平綱昌の子が養子に・・・4代当主・長教

前に記したように、 福井藩6代藩主・綱昌は、不行跡のため、1686年江戸鳥越に蟄居になった。この綱昌に、1690年、長男・長教(ながのり)が生まれた。母親は不明のようだ。この長教は、1699年、7代藩主・吉品の命で、子供のいなかった富正家3代の長員(ながかず)の養子にされた。幕府によって蟄居させられた者の子なので、松平家を継がせるわけにはいかず、そうかといって、元藩主の息子なので、放っておくわけにもいかないので、松平家を支え続けてきた本多富正家に引き取ってもらったのだろう。

こうして、元福井藩主の子が富正家の4代目の当主になった。従って、以後の富正家は、生物学的には福井松平家の子孫(つまり家康の子孫)になった。富正家は徳川一族になってしまったのである。

水戸徳川家の一族から養子を迎える・・・9代当主・副元

その後、実子がいないときは近い親族間で養子をやり取りして本多家を継いできたが、1862年、8代・冨恭(とみやす)が41歳で没し、後継者がいなかった。本多家9代当主になったのは、水戸徳川家の一族で常陸府中藩主・松平頼縄(よりつぐ)の甥にあたる副元(すけもと)である。この人が富恭の養子になったのは、富恭の死の翌年だ。こういう末期養子が認められた背景には、富正家は実質的に徳川一族の子孫だったためもあるかもしれない。

この副元の時、維新を迎え、大名待遇であったにもかかわらず、副元が華族になれなかったことに怒った武生領民が、1870年武生騒動を起こし、副元は結局1884年に男爵になった。

本多鼎介家

本多富正家と同祖?

こうして、福井松平家と本多富正家は、江戸開府以来深いつながりがあることが分かった。そして、福井藩主・綱昌の子が富正家を継いでからは、富正家は事実上福井松平家の子孫になった。

では、富正家の家臣だった本多鼎介家は、これら両家とどういう関係だったのだろうか?  

冒頭にも記したように、本多鼎介の孫にあたる本多重雄氏が、本多富正、本多鼎介・両家の墓がある武生の龍泉寺の墓碑に、「我が本多は富正家と同祖」と刻したという。どこかでつながっていたようだ。

以下は主として遠藤恒雄さんからの情報による。

鼎介の父親も富正の従兄弟も九郎左衛門

本多鼎介の古い資料によると、本多鼎介の父親は(8代)九郎左衛門といったという。

一方、神門酔生(こうど・すいせい)著の「越前武生藩史」に右図のような本多富正家の系図が掲載されている(4)。富正、成重、九郎左衛門の3人は祖父が同一人物で、お互いに従兄弟だったという。この九郎左衛門が本多鼎介の先祖の初代九郎左衛門かも知れない。

同書によると、「富正が福井藩で4万石の禄を食むと聞くや、我も我もと押し寄せてきた三河の親類筋が9人もあった」ということである。本多鼎介の先祖も「我も我もと押し寄せた親類筋」の一人だったのかも知れない。

いずれにしても、当初は本多富正の親類が多数いたようだ。しかし、前にも触れたように成重の子孫は藩を離れ、家老クラスは富正家だけになったようだ。

本系図によると、九郎左衛門家は200石だが、その後減らされ、本多鼎介の時代には(注2)100石だったという。

これらの点から、富正の従兄弟の九郎左衛門が本多鼎介家の先祖である可能性がかなり高そうだ。

ただし、富正の従兄弟の九郎左衛門が生物学的に本多鼎介につながっているかは全く別問題だ。福井松平家も、本多富正家も、家はつながっていても、血縁は途中で何回も切れている。

また、 たとえ初代九郎左衛門が本多鼎介の先祖だったとしても、本多鼎介と生物学的につながっている可能性あるのは富正家の3代当主・長員までで、その後の富正家は実質上松平家の血筋である。

9人対16人

本多鼎介は同家の9代目の当主に当たる。従って、江戸時代の同家では9人が当主を務めたことになる。他家と比較すると、本多富正家は、副元までで同じく9人、福井松平家は、慶永までで16人、徳川将軍家は、慶喜までで15人である。これは何を意味するのだろうか?

江戸時代を260年とすれば、福井松平家や将軍家の当主の平均在任期間は16~17年で異常に短い。上に見てきたように、福井松平家では、夭折、改易、自殺などが続いたために平均在任期間が短いのであろう。徳川将軍家は、家斉のように50年も将軍を務めた人がいたにもかかわらず、平均的には短い。他の将軍がいかに短命だったかが分かる。

これらに比べれば、本多富正家や本多鼎介家は、一人が平均29年務めたことになり、ほぼ30年1世代で、まともな代替わりが続いたことになる。

2万石対100石

本多富正家の石高は、当初4万石だったが、貞享の半知で2万石に減った。減ったとはいっても、2万石といえば大名の石高である。

一方、本多鼎介家の石高は200石から100石に減ったようだ。江戸の与力の石高が平均200石程度(4公6民として実収200俵)、徒士の俸禄が70俵だったというので、本多鼎介家の100石(実収100俵)というのは、与力クラスと徒士クラスの間になる。いずれにしても、富正家とは200倍の開きがあり、家格がまるで違う。

本多鼎介は、藩校立教館の先生になり、後に側用人、町奉行を務めたという。しかし これだけ家格が違うと、たとえ親戚筋といっても、結婚や養子の縁組の対象にはならなかったのではなかろうか?

いずれにしても、本多鼎介家についてはまだ分からないことが多い。今後の課題としたい。 

 

(注1) 訂正:「仲さんの」 → 「仲さんの兄の」 (17/6/16)

(注2) 訂正:「これは貞享の半知で100石になったと思われる。本多鼎介家は」 → 「その後減らされ、本多鼎介の時代には」 (17/10/15)

(注3) 訂正:「後に記すように、本多鼎介家はこの時200石から100石に減らされたようだ。」 → 削除 (17/11/22)

 

[後記]

 本多鼎介家(九郎左衛門家)についてその後判明したことを、本編の続編として「越前本多家・追補」に記しましたので、合わせてお読み下さい。 (18/5/8)

 

[関連記事]

(1) 「福井県史」通史編3、近世一、1994年、福井県文書館

(2) 「福井県史」通史編4、近世二、1996年、福井県文書館

(3) 「本多成重と丸岡藩」、2003年、みくに龍翔館

(4) 神門 酔生、「越前武生藩史」、1987年、安田書店

 

[謝辞] 本多敏雄さん、遠藤恒雄さんには貴重な資料を貸して頂き、また数々の情報を提供して頂きました。ここに厚くお礼申し上げます。

(完) 2017年6月15日

[後記]追加   2018/5/8


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