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越前本多家・追補

「 福井松平家、本多富正家と本多鼎介家」続編

酒井 寿紀

本多九郎左衛門家

本多鼎介は第9代九郎左衛門

昨年(2017年)、私の先祖が関係していた越前本多家と越前藩主であった松平家のことを「 福井松平家、本多富正家と本多鼎介家」という小文に書いた(1)。その時は、松平家や富正家については公開されている資料がかなりあったので、いろいろ分かったが、本多鼎介家については資料がほとんどなく、分からないことばかりだった。しかしその後、江戸時代の越前府中(明治以降の福井県武生、現在は越前市)に縁があり、その歴史を調べている何人かの人と知り合いになり、いろいろ分かってきたので、本編に記すことにした。

前編に、本多鼎介(私の高祖父、私の母の母の母の父)の父親は第8代九郎左衛門といい、江戸時代の初めに越前に入った本多富正一族にも九郎左衛門という人がいたので、本多鼎介はこの人の子孫かも知れないと記した。

その後、武生の金剛院にある九郎左衛門家代々の墓石から、これが間違いないことが確認された。それによると、本多鼎介は第9代九郎左衛門になるという(2)

これで私の先祖が江戸時代の前までさかのぼれることが分かった。血がつながっているかどうかは別問題だが・・・

初代九郎左衛門の父親は「本多重定」

前編に、初代九郎左衛門は本多富正(府中領主)、本多成重(丸岡藩主)と従兄弟同士だったと記した。これは本多富正家の系図「本多家譜」によるものである(3)

それによると、富正の父は重富、成重の父は重次と名前がはっきりしているのに、初代九郎左衛門の父の名前は「某」となっていて、左近右衛門とも称したと記されているが、系図作成時に正式な諱(イミナ)が分からなかったらしい。しかし、重富、重次、某の兄弟の下に重玄という弟がいたことはちゃんと記されている。

一方、「越前市史」に掲載されている「佐久間家文書」による系図では、上記の「某」が「重定」となっている(4)。その子孫についてはまったく記載がないが、両方の系図をつき合わせると、初代九郎左衛門の父親の名前は重定だったと推定される。

重定は富正家が越前に入る前に死去していたため、その名前が越前の富正家にはちゃんと伝わっていなかったのかも知れない。

第3代九郎左衛門はどこから来た?

貞享3年(1686年)の本多家家臣録に、「了雲(第2代九郎左衛門)養子、実は十左衛門妾腹也」と書かれているという。崩し字の解読は難しいが、現在のところこう読むのが妥当なようだ。とすると、第2代九郎左衛門には実子がいなく、他家から養子を取ったことになる。

では、この十左衛門とはどういう人だったのだろうか? 1670年頃から1700年頃にかけての本多家家臣録には、家臣の本多家の筆頭に400石の十左衛門が記されているので、第3代九郎左衛門の実父は多分この人だと思われるが、この人が富正家や成重家とどういうつながりがある人だったのかははっきりしない。しかし、越前に来た大きい本多家は富正家と成重家なので、このいずれかの家の関係者であろう。越前に入った他の本多家としては九郎左衛門家があるが、その本家が200石だったので、そこから出た分家が400石ということは考えられない。

この十左衛門の出自についてはいろいろ推定されているが、まだ確実なことは分からないようなので、今後の課題にしたい。そして、第3代九郎左衛門になった人の奥さんと、それ以前の九郎左衛門との血縁関係の有無も分からず、これも今後の課題である。

ただ、この第3代九郎左門以外の九郎左衛門については、こういう養子縁組の記録が残っていないので、代々実子が家督を継いだものと推定される。その点では、越前松平家や本多富正家に比べ、家督相続上の問題は少なかったようだ。 

地方の町奉行の仕事

第8代九郎左衛門

初代から第7代九郎左衛門までは、墓碑ぐらいしか記録が残ってないので、何をしていた人かまったく分からない。ところが、第8代九郎左衛門は府中領の寺社町奉行をやっていて、晩年に事績を口述筆記させたものが残っている(5)。江戸時代の地方の役人の仕事ぶりが分かって興味深いので、その一部を紹介しよう。

第8代九郎左衛門は寛政8年(1796年)に生まれ、明治8年(1875年)に数え年80歳で死去した。その間、天保3年(1833年)の38歳の時に、御側御用人から寺社町奉行になり、嘉永3年(1850年)の55歳まで17年間務めたという。これは当時の府中で最も長い勤続年数だっとという。「考えてみれば、20年近くも、よくもよくも勤めたもので、その間に江戸の町奉行が南北で12人も変わりました」と言っている。

寺社町奉行といっても、これは富正家が支配していた府中領での話で、越前本藩の話ではない。その間「すっとこかぶりの盗っ人ばかり追いかけまわしていた」と言う。 この人は、後には府中領の家老になったが、知行は100石のままで、越前本藩の家老とはまったく格が違ったようだ。

ただ、九郎左衛門家は、府中領主の本多家に(注1)隣接して居を構えていたようだ。「ある時石垣の向こうから、佐助々々(8代目の幼名)と大層どうもえらそうに呼ぶ奴がある。おのれ痴れ者、わるさが過ぎるわと、おっ取り刀で駆け付けてみると、石垣の崩れからぬっと長い顔が出て、まじりまじりとこちらを窺っている。よくよく見るとこれがお上で、・・・さすがの私も進退きわまり、朱泥の如くに相成りました」ということである。

九郎左衛門が早朝から大工仕事をしていたので、その音が気になって、どこの大工を使っているのか聞こうと思ってやって来たのだそうだ。当時の「お上」は越前本多家2万石の第7代当主で福井藩の家老だった副昌(スケマサ)と思われる。その家臣だった100石の九郎左衛門との関係の一端が窺える話である。

刑罰は死刑か追放

当時の町奉行の仕事は、現在の警察署長と裁判官を兼ねたようなものだったようだ。

死罪に処したのは在任期間の17年間で2~3件だったという。その代表として挙げているのが、産婆が産後の妊婦の「おりもの」を用水に流した件だというから驚く。江戸時代には用水を汚染することが重罪だったようだ。しかし、これが死罪の代表だということは、在任期間中に殺人事件などはなかったようで、府中は比較的治安がよかったようだ。

死罪に続く刑罰は「13里追放」で、町の中心から約50km以内には入れなくなる刑だという。これは、具体的には現在の福井県から石川県や滋賀県に追い出されることを意味したようだ。死刑に次ぐ刑罰が隣県への追放とは! その落差の大きさに驚く他ない。

より軽い刑は、「2里(8km)追放から5里(20km)追放で、これは組同心が牢屋から追い立てます。ですから、ビタ1文も要るものではありません」という。長期間牢屋に留めておく、いわゆる懲役刑はなかったようだ。この方が、牢屋の土地や建物も、罪人の食費も不要なので、財政的には楽だ。

「その他、『禁足』、『ひっそく』、『きっと叱り』等というものが数限りなくありまして、天保5年(1835年)には一切合切ひっくるめて711件ばかりもありました」という。平均すれば1日に2件程度だが、多い日には1日に14人裁いた日もあったという。

女囚の量産

品行の悪い女が多かったと述懐している。

例えば、色白の大柄な娘が、酒は飲む、博打はする、男に言い寄るというすれっからしで、墓地で夜鷹の真似をしたため捕らえたという。「たしか2里追放であったかと思います」とのことだ。

そして、「私っくらい女囚を作った奉行はない。・・・岡場所の女とは違って、素人女の淫奔というものは、幾多の男を闇にさ迷わせ、これが犯罪の源となる。女の形を正すことが、犯罪を根絶する唯一の道筋であると考えましたからして、容赦もなく女を引っくくった。ここいらあたりが、女に甘い江戸の町奉行とはチト行き方が違ったです」と言っている。

いささか女性に偏見を持っていたようで、今の女性が聞いたら怒りそうだが、当時の奉行の考えを知る上で参考になると思うので、そのまま記した。

座頭の親玉を処罰

ある時、「栗の市」という座頭の親玉が、「死神」という相棒とともに女をかどわかして囲っているようだとの情報が入った。早速捕らえようとしていると、「栗の市」の背後には御側御用人の佐久間様がからんでいるのでちょっと待つようにと忠告する者が現れた。

その者は、「佐久間様ばかりか底は古井戸のように暗くて、深くて見当の程もつきかねます。すべて古井戸などというものはさし覗かぬ方がよろしいのであるから、今にわかに栗の市をしょっ引いて佐久間様の御名前をいだすことは、一藩の大事にもなりかねない」と言ったそうだ。「言われてみれば、私が佐久間に手入れをするということは自滅以外の何物でもないので」、当面栗の市に手を付けるのはやめるこにしたという。

江戸時代には、町奉行の仕事は町人以下の取り締まりで、武士の問題に手を付けることなど考えられないことだったようだ。分をわきまえないと、とんでもないことになるのは、今も昔も同じである。

その後、「佐久間様というピカピカしたものをなくして、ただの座頭に成り下がった栗の市が、追ってこよう筈もない追手をおそれて」逃亡したという。「そこで私は栗の市と死神を再び逮捕して、御牢屋を申し付け御政道の峻厳というものを思い知らせたいというふうに、だんだんと心持が動いて参りました」という。

二人の捜索を続けたがなかなか行方が分からなかった。しかし、しばらくして、本藩が支配している山に逃げ込んだことが分かった。そこでその地方を管理している本藩の役人にカネを渡して了解を取り付け、部下の同心に二人を捕縛させたという。奉行が捕縛の現場に立ち会うことは絶対になかったということだ。

府中領は越前藩の一部といっても、本藩の土地に逃げ込んだ犯人を勝手に捕らえるわけにはいかなかったようだ。そして、江戸時代の役人を動かすには、何事も「袖の下」が必要だったようである。

栗の市と死神は、牢屋で拷問を受けた後、牢死したという。「ちょうちゃくし拷問して牢死させた」というので、江戸時代の拷問は自白を強いるための手段だけではなかったようだ。

そして最後に、「私は負けはしなかった。寺社町奉行として、まこと一筋に生き抜いてきた」と述懐している。

越前本多家の先祖に家康の乳母がいた!

本多重玄

「 本多家譜」によると、重富、重次、重定の兄弟に「重玄(シゲハル(注2))」という弟がいたという(3)。この重玄について次のように記されている。

「家康公の乳母子なり。天文13年甲辰(1544年)享年18歳、参州(三河)梅壺(坪)城において討死す。その面、13所の刀瘡(傷)あり。敵その勇を大いに感じ、頸を家康公に送る。公甚だこれを惜しむと云々(3)」[( )内は筆者による加筆。漢文を読み下し文に変更]

これによると、重玄は家康の乳母の子だという。重富、重次、重定など、他の兄弟にはこういう記述がないので、重玄は重富、重次などの腹違いの弟だったことになる。

不思議なのは重玄の生没年だ。天文13年(1544年)に数え年18歳で死んだとすると、1527年に生まれたことになる。そうだとすると1529年生まれの重次より年長になってしまう。また、家康は天文11年生まれなので、重玄が戦死した時は数え年3歳であり、敵将が頸を家康に送った話も、家康がそれを受け取って惜しんだという話もあり得ない。

そのため、重玄の没年について他の文献を調べてみた。すると、茨城県取手市に重次と重玄の墓があり、重玄は永禄元年(1558年)寺部(テラベ)城の戦いで戦死したという(6)。 もしこの年に数え年18歳で死んだとすると、この年に数え年で17歳だった家康より1歳年長ということになる。この年齢なら、敵将が重玄の頸を家康に送り、家康がそれを惜しんだことが充分考えられる。

そして1558年には、今川義元の人質であった家康が、義元の命令で寺部城攻めに初陣し、それに家康の家臣だった本多重次とその弟の重玄も従軍し、重玄はその時戦死したという。戦闘は寺部城からその近くの梅坪城等に展開されたようで、重玄が正確にどこで戦死したのか不明だが、この一連の戦闘中に死んだのは間違いないようだ。

これらの点から、「本多家譜」の重玄の没年「天文13年(1544年)」は「永禄元年(1558年)」の誤りのようだ。誤りの原因は不明だが、東京大学史料編纂所に収蔵されている手書きの系図の原本にこういう誤りがあるとは、何を信用したらいいのか分からなくなる。

家康の乳母

「本多家譜」によると、重玄の母親は家康の乳母だったという(3)。と言うことは、この女性は重玄を生んだ翌年に、数え年で1つ違いの家康の乳母を務めたことになる。自分の子の授乳に続いて他人の子の乳母を務めることは、よくあったことだと思う。重玄と家康は1つ違いの乳兄弟ということになる。1つ違いといっても、家康は旧暦12月の生まれなので、実際には2歳近く離れていた可能性もある。

以下はまったく根拠のない想像上の思いつきである。

重玄と家康は、子供の頃、乳兄弟として共に過ごし、遊び友達だったかも知れない。一緒に勉強したり、武道の稽古をしたりしたこともあるかも知れない。とすれば、家康にとって重玄は特別な存在だったことが考えられる。

そして、家康17歳、重玄18歳の時に、家康の初陣に、重玄が兄の重次とともに出陣し、奮戦の後に討ち死にした。それは、家康にとって一生消えない心の傷として残ったかも知れない。

家康が、その後越前本多家を、ことのほか大事に扱った背景には、「一筆啓上」の手紙で有名な本多作左衛門重次への恩義の他に、幼少時に兄貴分だった重玄に対する思慕の念があったのかも知れない。そしてそれは、幕末に至るまで将軍家で代々引き継がれたことが考えられる。

 

(注1) 訂正: 本多家の表門に → 本多家に (18/4/28)

(注2) 訂正: シゲクロ → シゲハル (18/4/28)

 

[関連記事]

(1) 酒井 寿紀、「福井松平家、本多富正家と本多鼎介家・・・三家に江戸時代の家督相続の実態を見る

(2) 「金剛院 本多九郎左衛門家墓所詳細」 

(3) 「本多家譜」、東京大学史料編纂所 (https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/image/idata/400/4175/716/xxxx.tif)

    (上記URLのxxxxを、0000, 0011, 0020, 0021, 0030, 0031, 0040, 0041, 0050, 0051に置き換えて使用下さい)

(4) 「越前市史 資料編4『本多富正関係文書』」、越前市文化課

(5) 神門 酔生、「武生藩史 第3冊」、1970年10月31日、武生史談会

(6) 「常総鉄道名勝案内

 

[謝辞] 遠藤恒雄さん、川瀬健一さん、竹内正彦さんには数々の貴重な史料のコピーを頂き、また史料や碑文の調査・検討にご尽力頂きました。ここに厚くお礼申し上げます。

(完) 2018年4月27日

訂正:18/4/28


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