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四 国 旅 行

酒 井 寿 紀

目次

   高知   四万十川   丸亀   高松   小豆島

 

高知

現在も長宗我部氏と山内氏が対立?

今年(2015年)4月、女房と二人で、4泊5日の四国旅行をした。北海道や九州は何回か行ったことがあるが、四国は結婚式に呼ばれて一度松山に行ったことがあるだけだったからだ。それに、土佐藩の山内氏、大江氏、入交氏に関係する人たちに、どういうわけか縁があるからだ。

何といっても坂本龍馬に一番興味があったので、まず高知へ行こうと、高知の観光案内をあれこれ調べた。高知城、桂浜の坂本龍馬記念館などが載っていた。この辺へ行けばよさそうだ。時間があれば高知市には、龍馬が生まれ育った街、山内家の家来の長屋、自由民権運動の記念館なども残っているという。

そんなつもりでいたところ、ある日、これらの他に高知県立歴史民俗資料館というものがあって、長宗我部氏に関する資料が展示されているということを知った。観光案内で気付かなかったのは、高知市を外れた山の中にあるので、あまり大きく扱ってなかったためだ。しかし、長宗我部といえば、江戸時代に山内氏が入国する前の戦国時代の土佐の大名だ。興味があるので、高知空港に着いた朝、高知の街のホテルへタクシーで向かう途中、ここに立ち寄ることにした(1)

タクシーの運転手に聞いたところ、ここへ来るバスは、1日に朝と昼ごろと夕方の3本しかないという。あとは、タクシーか自分のクルマかレンタカーを使うしかないらしい。観光案内にあまり載ってないのもうなづける。ここに県の資料館を建てたのは、岡豊(おこう)というこの場所に長宗我部の城があったためだというが、利便性は最悪だ。

展示内容はよく整理されていて、非常に分かりやすい。しかし、現在でも攻め落としにくい山の上の城跡なので、我々と同時刻に来ていたのは年配の男が一人だけだった。

実は、今回の旅行を決めた後、高知市の山内家の資料館が、建て替えのためこの3月末に2年間の休館に入ったと知った。そこで、ここも「高知県立歴史民俗資料館」という名前なので、山内家関連の資料も少しはあるかと思って、そこの女性に聞いてみた。

ところが、「ここは、長宗我部が中心で、山内家のものは高知市の別の資料館になります」という。しかし、そこは休館中だ。「長宗我部家と山内家は仲が悪かったからしかたないね」と言うと、「はい、そうなんです。済みません」と謝られた。

400年経った現在でも、両家の対立は続いているようだ。この対立には、その後も何回か出くわすことになる。

入交家は長宗我部の家臣だった?

土佐出身の入交(いりまじり)という一族がいる。ホンダの副社長をしていた入交昭一郎さんなどだ。私の母の従姉妹が入交家の人と結婚したので、私とは姻戚関係になる。この入交というのはどういう一族なのだろうか?

先日(2015年5月19日)NHKのBSテレビが長宗我部氏の歴史を取り上げていたので、録画しておいて見てみた。長宗我部氏は、江戸時代には徳川を憚って、島という名前に変えて血統を絶やさず生き続けてきたという。徒士(かち)という馬にも乗れない下級武士として山内家に仕えていたのだそうだ。明治に入って、もう徳川に遠慮する必要がなくなったので、元の名前に戻したという。

長宗我部家第17代当主という人がテレビに出てきた。江戸時代以降も、長宗我部家の最盛期に当主だった長宗我部元親の法要を50年ごとに執り行ってきたという。嘉永元年(1848年)に開かれた250年忌の記録帳がテレビに映し出されていた。参列者250人の名前と布施の額などが記されている。中には布施の代わりに供物として饅頭を2個持ってきた人もいる。長宗我部家の家臣だった人々の当時の暮らしぶりが分かる。

 記録帳のページがパラパラと映し出されたのを見ていると、入交という名前の人が何人もいる。入交一族は長宗我部氏の家臣だったようだ。一族は、現在高知県を中心にして入交グループという企業群を形成して活躍している。その元になったのは文政年間に始めた石灰の商売だという。山内家の支配下では藩の要職に就くことができないので、商売の方に力を入れて成功したのだと思われる。

龍馬は手紙魔だった?

その日の午後、桂浜の坂本龍馬記念館に行った。これが今回の旅行のメインイベントだ。しかし、当日は大雨で、海は大荒れ。太平洋から打ち寄せる波の迫力は満点だったが、水平線の果てまで眺めたいという期待は完全に裏切られた。

この記念館の展示の中心は手紙である。龍馬が書いた手紙の、現物のコピー、活字化したもの、現代語にしたものの各3通りが展示されている。仲が良かった姉宛ての手紙など、口語体で挿絵入りで、人柄が感じられて大変面白い。通信手段が極めて限られていた時代に、よくもこんなに手紙を書いたものだと思う。龍馬は、現代のメール魔の先駆者でもある。

ただ、ここで手紙を全部読むのは時間がかかって大変だ。巻物の手紙の実物大のコピーを見るのにはそれなりの意味があると思うが、手紙を読むのなら、何もこの資料館に来なくても印刷物で読めばよいように思う(2)

龍馬の謎

龍馬については、前から不思議に思っていることがある。龍馬は文久2年(1862年)3月に土佐藩を脱藩した。つまり、誰にも頼れない一介の浪人になったわけだ。しかし、同年12月に越前藩主・松平春嶽に会い、この人の紹介状を携えて同月勝海舟を訪問したという。龍馬のその後の活躍は、すべてこの勝海舟との出会いから始まる。海舟が得体のしれない浪人の龍馬に会ったのは、春嶽の紹介状を持っていたためだと思われる。

春嶽は第11代将軍家斉の甥にあたり、福井藩松平家の養子になった人で、32万石の福井藩の大名だ。普通なら一脱藩浪人のために紹介状を書くなどとても考えられない。では、なぜ龍馬のために海舟への紹介状を書いたのだろうか? これがよく分からないらしい。私にとって龍馬についての最大の「ミッシング・リンク」だ。

この記念館に、この謎を解く鍵でもないかと期待したが、それは無理だった。龍馬は手紙魔だったようなので、そのうち何か手がかりでも見つかることを期待しよう。

高知城

次の日は高知城へ行った。前日とは打って変わって快晴だった。城のある山は標高44mで、10階分ぐらい階段を登らないといけないので大変だと思っていたが、山の麓に無料貸し出しの杖が置いてあったので助かった。

天守閣の入り口にボランティアのガイドがいたので案内してもらうことにした。聞くと、東京でサラリーマンをしていたが、退職後郷里へ戻って、観光案内をしているという。知らないことを聞かれると、持っていたタブレットですぐ調べてくれるという、大変真面目で熱心な人だった。この人のおかげでいろいろなことを知ることができた。

長宗我部氏は前記の岡豊の山の城にいたが、ここでは不便だと現在龍馬記念館があるところに浦戸城を建てて引っ越したという。山内一豊が土佐に入国した時も、まずこの浦戸城に入った。しかし、ここでは高知の街から遠く不便なので、現在の高知城を建てて移ったという。

ところが、最近高知城の周りで、山内一豊が造った石垣の下から、さらに古い石垣の跡が見つかったという。長宗我部もここに城を築こうとしていたことは知られていたが、今まで詳細は分かっていなかったようだ。現在その発掘工事が進められている。

山内占領軍が街の中心部を占領!

その日の午後は、高知城の城下町を歩き回った。山内一豊は長宗我部の家臣に抵抗され、なかなか高知に入れなかったそうだ。高知に入ると、高知城や山内氏の家臣団が住む場所から長宗我部時代の住人を追い出したという。いわば、第2次大戦後、米国の進駐軍が日本人を全員千代田区から追い出したようなものだ。坂本龍馬が生まれ育った家は、こうして追い出された人たちの居住地にある。

山内家の下屋敷跡は、現在はホテルになっていて、主な建物は跡形もないが、どういうわけか警護の足軽用の長屋だけが昔のままの姿で残っていて、無料で中を見学できる。天守閣だけでなく、こういう建物の保存にもっと力を入れるべきだ。

この下屋敷に隣接して、山内家を祀っている山内神社がある。この神社は明治になって建てられたものだそうだ。我々の他に来訪者もなく、ひっそりとしていた。

この神社の中に山内家宝物資料館がある。いや、あった。現在は、それに代わる大きな建物を高知城の近くに建築中で、それが完成する2017年春まで休館中である。

実は、小学校の同級生に山内さんという女の子がいて、今でも年に1回同級生の仲間で顔を合わせている。数年前に彼女が土佐の山内家の末裔だと聞いて、大変驚いた。そういうこともあって、明治以降の山内家の人々について知りたいと思っていたのだが、今回は目的を果たせなかった。

 

居酒屋で「ぐれ」や「のれそれ」に挑戦

高知のホテルに泊まった夜は、繁華街のはりまや橋の近くの居酒屋で食事をした。店のお姉さんに鰹のたたきをまず頼んで、あとは、この辺でしか食べられない魚を食べたいと頼んだ。彼女のお勧めは「ぐれ」だというので、頼んでみた。後で調べると、関東では「めじな」だという。アナゴの稚魚を「のれそれ」、カタクチイワシの稚魚を「どろめ」といって、この地方では酢醤油や酢味噌でよく食べるというので、これも頼んだ。「チャンバラ貝」というの名前が面白いので、これも追加した。 いいお姉さんに出会えたので、珍しいものを食べることができた。

一時新潟に住んでいた時も、魚の名前がずいぶん違うので驚いたが、これだけ流通網が発達し、全国で同じテレビ番組を見るようになっても、魚の名前や食べ方が地方地方でずいぶん違うのに感心する。四国では鰹のたたきを醤油を使わずに塩だけで食べるのにも驚いた。また出っ歯の「ハガツオ」という魚にも初めて出会った。

 

四万十川

ウナギの代わりにウツボ

高知の城下町を歩き回った日の夕方、鉄道で四万十川に近い中村に移動した。地図で見ると高知からたいした距離はないのに、特急で2時間近くかかった。列車の前方の窓から外を見ると、旧土讃本線なのに単線である。ほとんどの駅ですれ違いのため待たされるので、時間がかかるわけだ。

中村のホテルの夕食では、四万十川の天然ウナギを使った柳川鍋が出るというので楽しみにしていた。ところが、まだウナギが取れないので、ウナギの代わりにウツボを使うという。ウツボは初めてだ。最初はウツボに拒否反応を示していた女房も、有無を言わさず食べさせられる羽目になった。

後日小豆島のホテルでもウツボの唐揚げが出た。ウツボは関東ではほとんど食べないように思うが、四国では普通に食べるようだ。淡白な味で、唐揚げなどに合うようだ。ウナギは食べるのにウツボは食べないというのは、食習慣の違いだけだろう。ヘビやイヌについても同じことだろう。

次の日タクシーの運転手に聞くと、今ウナギが食べられるのは、四万十川の下流の四万十屋というレストランだけだという。折角四万十川に来たので、この川の天然ウナギを食べようと、その日の昼食にそこまで行った。季節的にちょっと早すぎたようで、まだ小さいものしか獲れないという話だった。しかし、生簀にはウナギがウジャウジャと泳いでいた。天然ウナギを食べたのは多分30年振りぐらいになると思う。

二人で屋形船を借り切る

四万十川には、何か所かに遊覧船が用意されている。どこがいいのかよく分からないので、中流域を遊覧する屋形船に乗ることにした。乗り場までの交通機関はタクシーしかないという。有名な観光地の割には、交通機関が未発達だ。街なかのホテルから屋形船の乗り場まで、タクシーで3,000円以上かかってしまった。

屋形船には、我々の他にもう1組予約が入っていたようだが、出発時刻を5分過ぎても現れず、結局20人乗り位の船を我々二人だけで借り切ることになった。

四万十川には沈下橋(ちんかばし)という橋が何か所かに架かっている。この橋は、大雨で増水すると水面下に沈むという。水中になった時、欄干があると流木などが当たって橋が破壊する恐れがあるため、沈下橋には欄干がない。幅は、軽自動車がやっとすれ違えるぐらいで、大型車はすれ違えないそうだ。

最近できた幹線道路の橋は、もちろん沈下橋ではないが、昔渡し舟代わりに作った橋が今でも地元の人に重宝されているのだろう。ずいぶん危険なように思うが、世界中にはこのように危険な橋や道路がざらにあるのだろう。

遊覧船の船着場で、四万十川のスケッチをした。普段はもっと水が澄んでいるが、大雨の後なので、少し濁っているという話だった。

 

大江家は土佐西海岸の出身

土佐出身の維新の志士の一人で、後に神奈川県の権令(ごんれい、現在の県知事)などを務めた大江卓という人がいる。この人は後藤象二郎の娘と結婚して、大江太(はじめ)という息子さんをもうけた。この大江太さんが私の曾祖母の妹と結婚した。従って、大江太さんの子孫は私の親戚になる。この大江卓はどういう出自なのだろうか?

四万十川が流れる四万十市の西隣に、宿毛(すくも)市がある。高知県の西海岸の街だ。宿毛市の「宿毛資料館」というウェブページによると、大江家はこの宿毛の出身だという(3)

宿毛は山内氏の家臣の安東氏が治めていたという。山内氏と安東氏は両家が尾張や美濃にいた時代から婚姻関係で深く結ばれていようだ。したがって、安東氏は山内氏に伴って土佐に入ったものと思われる。同氏は山内氏の家臣といっても、宿毛6,000石の領主だったというので、石高的にも大名に近い(4)

大江卓の父親はこの安東家の家臣だったという。それも、安藤家の嫡子のお伽役だったというので、両家は非常に親しい関係にあったものと想像される。江戸時代には、長宗我部の家臣は藩の要職に付けなかったようなので、大江家は長宗我部時代からの土佐の人ではないようだ。安東家同様、山内家に伴って土佐に入国したものと思われる。

 
 

丸亀

丸亀まで特急で4時間

四万十川を訪れた日の夕方、鉄道で丸亀へ向かった。中村から丸亀までは直通の特急があるが、それでも4時間近くかかった。「のぞみ」で東京から広島まで行く時間と同じだ。四国内の交通の不便さを改めて実感する。

途中、車窓から吉野川の渓流を何回か見る。渓流としては、四万十川より変化に富んでいて、こっちの方が面白そうだった。今回は時間がなく、ここは素通り。

四国に初めて来れば、普通は金刀比羅神社(ことひらじんじゃ、こんぴらさん)にも立ち寄るのだろうが、ここも脚に自信がないので省略。

この日の夕食は、 丸亀駅前の大衆食堂の讃岐うどんで済ます。これが1回目の讃岐うどんで、翌日も翌々日も昼は讃岐うどんだった。

女性の力で生き延びた京極氏?

江戸時代の初めには、丸亀は高松藩の一部だったそうだ。その後独立した藩になり、1658年に京極氏が約6万石で入国して以来、幕末まで京極氏が藩主だった。

京極氏についてはほとんど知らなかったが、秀吉から家康の時代にかけて、非常に危ない綱渡りをして、かろうじて生き延びてきたことが分かった。

1582年に明智光秀が本能寺の変で信長に背いた時、京極高次は光秀側について秀吉と戦ったという。この戦いで、光秀はじめ多くの人が命を落としたにもかかわらず、高次が生き延びられたのは、高次の妹(姉?)が秀吉の側室になっていて、助命嘆願したためだそうだ。

高次は、関ヶ原の戦いで東軍の勝利に貢献し、その功績が家康に認められて、京極家は小浜藩、松江藩の大名になった。ところが、高次の子・忠高が1637年に死んだとき、子供がいなかったため改易寸前になったという。にもかかわらず、末期養子が認められて改易を免れたのはなぜか? 

関ヶ原での高次の貢献もさることながら、高次の正室・初は徳川秀忠の正室・江(ごう)の姉であり、忠高の正室・初姫は秀忠と江の子で、しかも、忠高と初姫の縁組には初が深くかかわっていたことが大きかったようだ。つまり、元々外様大名だった京極氏は、譜代大名同様、姻戚関係で徳川と強く結ばれていたのだ。

こうして、忠高の甥・高和が末期養子として認められ、京極家を継いだ。高和は1658年に丸亀に移封になり、京極氏の丸亀藩が幕末まで続くことになる。

最後に建てられた天守閣?

丸亀城は、丸亀駅から歩いて15分ぐらいの、街の真ん中の小高い山の上にある。山といっても標高は66mしかないが、山のふもとから山の上まで覆っている石垣の高さは日本一だと威張っている。天守閣の屋根は3重で、そう大きくはないが、街から見上げる仰角が大きいため、見る者を威圧する。

この天守閣が建てられたのは、京極高和が入国して2年目の1660年だという。1660年といえば、大坂夏の陣から45年後で、もう戦いのための城の必要性はまったくなかったはずだ。江戸城の天守閣も、1657年の明暦の大火で焼失した後、再建されることはなかった。夏の陣以降に新たに建てられた天守閣は、他にもあるのだろうか?

丸亀城の天守閣は、実際の戦いのためというよりも、威容の誇示を目的にしたもののようだ。

 
 

高松

高松駅で「階段はどこですか?」

丸亀から列車で高松に向かった。高松駅は地上階で、プラットフォームも多い。私は、この駅は終点ではなく、この先徳島方面へ向かうレールが延びているものと思い込んでいた。こういう駅から外へ出るには、階段を使って、陸橋か地下道で線路を横切るしかない。ところがどこにも階段が見当たらない、そこで売店の女性に、「階段はどこですか?」と聞くと、怪訝な顔をして、「どこへ行きたいのですか?」と聞く。「出口から外へ出たいんだけど」と言うと、「それなら、ホームをまっすぐ行けば改札があって、外に出ます」とのこと。

この駅は、終点駅と同じ構造で、例えば岡山から徳島に行く特急は、ここで進行方向が逆になる。こういう駅はヨーロッパなどではよくあるが、日本にもあるとは知らなかった。そのため、駅の女性にトンチンカンなことを聞いてあきれられた。考えてみれば、こういう構造だと、エスカレータやエレベータも不要で、利用者にとっても完全にバリアフリーなので、利点も多い。

高松駅はどうしてこういう構造になっているのだろうか?

1988年に瀬戸大橋が完成するまで、本州と四国をつなぐ最大の交通手段は宇野・高松間の宇高連絡船で、高松が四国の出入口だった。松山や高知や徳島に行くには、まず船で高松に渡り、そこから列車で各地に行った。その逆も同じだった。そのため、当時の高松駅の最大の役目は宇高連絡船との接続だったので、その場所も現在より300メートルほど東の高松港に隣接するところだった。そして、高松を経由して列車で移動する人より、高松で列車と宇高連絡船を乗り継ぐ人の方が多かったので、高松駅を終点駅の構造にしたのだと思われる。

宇高連絡船の影響は、高松駅の位置や構造だけではないようだ。瀬戸大橋の完成と同時に宇高連絡船は廃止になり、現在は、松山も、高知も、徳島も、岡山から直通列車で行ける。また、岡山などから四国各地への直通のバスも多い。こうして、高松の四国の玄関口としての役目は終わったようだ。

高松城の堀は海水で、タイが泳いでいる

 高松城は、堀が海につながっている珍しい城である。堀には、潮の干満による水位の変化を調整する水門があり、タイやチヌなどの海の魚が泳いでいるという。

この城の天守閣は四国最大の規模だったが、明治に入って、1884年に老朽化のため取り壊された。その復元の話が現在進んでいて、傷んだ石垣の修復工事が2013年に完了したところだという。現在は堀に囲まれた立派な天守台だけ見ることができる。今後その上に天守閣を復元する計画だという。

藩祖は水戸黄門の兄!

高松城には、1642年に松平頼重が12万石の領主として入り、以後幕末まで高松藩の藩主は松平氏だった。

この 頼重は、何と水戸藩の初代藩主・徳川頼房の長男だったという。頼房は、兄である御三家の尾張や紀州の徳川家に世継ぎがまだ生まれていなかったため、遠慮して最初の子の堕胎を命じた。その命令に反して、家臣がひそかに育てたのが頼重だという。

その後光圀(水戸黄門)が生まれ、水戸徳川家の世継ぎになった。そのため、頼重の存在が認められたときは、当初光圀の弟の扱いだったという。しかし、最終的に頼重が高松藩の大名になり、その上その子が水戸藩の世継ぎとして認められたことは、いずれかの時点で、頼重が頼房の長男だと判明し、幕府もそれを認めたのだろう。

光圀は頼重の子の綱條(つなえだ)を養子にして水戸藩の跡を継がせ、また頼重は光圀の子の頼常を養子にして高松藩の跡を継がせた。その後は、頼重の子孫が代々水戸藩を引き継ぎ、世継ぎが絶えた光圀の子孫に代って、頼房の四男の頼元の子孫が代々の高松藩主になった。こうして、水戸藩、高松藩とも、結局水戸藩初代藩主・頼房の子孫によって治められることになり、お家騒動の元になってもおかしくないような話は円満に収まったようである。

兼六園や偕楽園より広い栗林公園

四国からの帰りに、 高松空港へ向かう途中で栗林公園に立ち寄った。純日本式の庭園で、松など手間のかかる木が多いので、維持費が随分かかりそうだ。

面積は庭園部分だけで16ヘクタールあるという。、水戸の偕楽園の本園と岡山の後楽園が、それぞれ13ヘクタール、金沢の兼六園が12ヘクタールだというので、面積では日本三名園を凌いでいる。高松藩は、自藩の格の高さから、庭園でも御三家並、三名園並を目指したようだ。

 

小豆島

タクシーで島を一周

今回の四国旅行は当初3泊4日のつもりだったが、女房がどうしても小豆島に行きたいというので、1日延ばして行くことにした。小豆島には、高松港から高速艇で35分かかる。料金は片道1,170円で安くはないが、通勤、通学に利用している人が結構いる様子で、中には塾通いの子供もいた。

小豆島では半日程度しか時間がなかったので、タクシーで主な観光地を一回りしてもらった。

まずオリーブ園に行った。小豆島は日本でのオリーブ栽培の発祥地だそうで、今でも全国一の生産量を誇っている。オリーブ園ではオリーブを大量に栽培しているが、一般の農家の庭先にもかなりのオリーブの木がある。ヨーロッパの地中海岸に近い景観は日本では珍しい。

次にマルキン醤油の大きな工場に行った。醤油に関する資料が展示されている。製造現場には一般の人は入れない。タクシーの運転手の話だと、納豆を食べた人を入れると、醤油がちゃんとできなくなるという。これは、後日、醤油会社の役員をしていた人に聞いたら本当だそうだ。この工場は、元は独立した会社だったが、現在はソニーの創業者の一人の盛田昭夫さんの実家の「盛田」という会社に統合されているという。

山の上から見ると、醤油工場専用の船着場が見える。映画「二十四の瞳」に出てくる工場もここだと思われる。

その後、寒霞渓(かんかけい)の渓谷をロープウェイから眺めた。規模はそれほど大きくないが、奇岩の連続が目を楽しませてくれる。ここは、本当は紅葉の季節の方がいいようだ。

人口が5万から3万に

タクシーの運転手の話だと、小豆島の人口は5万から3万に減ってしまったそうだ。島を抜け出す人が多く、その運転手も、二人の兄が島を出てしまったため、三男の自分が母親と一緒に暮らすことになったと言っていた。この島でも、「地方創生」が大きな課題のようだ。

(完) 2015年6月4日

 

[関連記事]

(1) 「高知県立歴史民俗資料館」(http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~rekimin/)

(2)  「高知県立坂本龍馬記念館」(http://www.ryoma-kinenkan.jp/)

(3) 「宿毛歴史館>宿毛人物史>大江卓」(http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/jinnbutusi/p011.html)

(4) 「宿毛市史>伊賀氏の先祖-安東氏」(http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/026001.html)


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