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No.214                            酒 井 寿 紀                      2002/08/05


日本の政治家の国際感覚

 

2号に渡って、ここ数年間の日本の政治家の国際問題についての言動で気になったものを取り上げる。これらはすべて、日本の政治家の一般的な傾向と思われるものである。

 

昨年の724日、当時の田中真紀子外相はハノイで中国の唐外相と会談した。その際、唐外相は靖国神社参拝問題について、日本は侵略の歴史を誠心誠意認め、戦争被害国の人民の感情を尊重し、熟考して賢明な決断をするよう要求した。これに対し田中外相は、靖国神社問題は日本とアジア諸国の関係に関わる重大な問題であり、慎重に対処する必要があると述べ、「中国の考えを首相に伝える」と言ったと報道された。会談後、唐外相はテレビ・カメラに向かって日本語で、「やめなさいと言明しました」と言っていた。

しかし、小泉首相は815日に靖国神社を参拝すると明言していたのである。小泉内閣の外相である田中真紀子さんが、国内で反対するのはいいとしても、海外で首相の方針に反する要求を聞いて、帰って首相に伝えますと言うのでは、まったく子供の使いと同じである。

いや、子供の使いと本人が馬鹿にされるだけならたいした問題ではない。日本の閣僚の意見がバラバラであることを露呈した。しかし、問題はそれだけではない。

国家間は、経済問題とか領土問題とか、つねに多数の懸案事項を抱えて対立しているのが普通である。経済戦争とも言われるように、たとえ武力を行使しなくても、常に一種の戦争状態にあると言える。中国との間でも現にセーフガード問題等が懸案になっている。

戦いに勝つためには、敵の弱みを見つけたら徹底的にそこを攻撃すること、そして自軍の弱みを敵に悟られないようにし、敵の攻撃の矛先を他にそらすことが常道である。

中国にとっては、靖国神社問題や歴史教科書問題は、かっこうな「敵の弱み」なのである。 すねに傷持つ身の日本は、こういう戦争責任ネタを持ち出されると、国内の意見がバラバラに分かれ、中国に対して急に低姿勢になるか、黙り込んでしまうからだ。つまり、日本は自ら自分の弱みを拡大してしまっているのだ。

過去の過ちは反省し、謝罪すべきことには謝罪しなければならない。しかしこういう戦争責任カードをいつまでも国家間の交渉カードとして使われたら、日本の将来は心もとない。

靖国神社参拝や歴史教科書の問題は基本的には国内問題である。外国の首相がその国のどの宗教施設を参拝しようと、また外国の教科書の日本の記述がどうであろうと、日本がまったく無関心なのは、これらはそれぞれの国の国内問題と考えているからである。それなのに、他国から文句をつけられた途端まじめに大騒ぎを始める。これは他国の思う壺である。

日本の教科書に文句をつけられたら、相手の国の教科書のあら捜しをして対抗すればよい。中国や韓国の教科書にだって捜せば不適切な表現がいくつかは見つかるだろう。

どういう言い方をするかは別にして、靖国神社や教科書問題についてとやかく言うのは内政干渉だというスタンスで臨まないと今までの流れを変えるのは難しいだろう。

いや、こういう不毛の議論の応酬をするより、向こうが戦争責任カードを出したら、こっちは著作権カードとか、偽ブランド・カードを切って対抗した方がよっぽど両国の将来にためだ。

日本の野党の主張は、靖国神社問題等に関して中国と一致するところが多い。野党が何を主張しようと自由だが、中国に行って、両国が対立している問題について中国に同調するのはまさに国益に反する行為である。野党といえども国益に反する言動をすれば次の選挙で制裁を受けるのが普通の国で、普通の国のまともな野党ならそんなことは絶対しない。

中国側は常に、「侵略された側の人民感情が許さない」と言うが、私が前に中国に行ったときに、「あの頃は近所の日本人が親切にしてくれてよかった。それに比べて今の中国は・・・」と私に日本語で話しかけてきた中国人がいた。「人民感情」といっても一律ではない。

だいたい、異民族に侵略され、虐殺された経験は中国数千年の歴史で数知れない。その最後の被害を交渉カードにして、いつまでもそれに頼っているのは中国にとっても決していいことではない。

こういう観点に立つと、田中外相の対応は、中国の言い分を全面的に認めているので、まさに中国の思う壺である。相手の言うことを認めて反論しないということは、一歩退くことであり、こっちが一歩退けば、相手がさらに一歩つけ入ってくるのは戦いの常である。中国にいい印象を与えて取り入り、中国政策での実績を稼ごうとして、実際は日本の国益を損ねている。

 

今年の58日、北朝鮮の住民5人が瀋陽の日本総領事館に亡命を求めて駆け込んだ。その時、日本の副領事の一人が、北朝鮮の残る2名を連行しに来た中国の武装警察の大隊長と握手をした。

このことについて川口順子外相は記者会見で、「知り合いがいれば握手をするのは当たり前」と言ったと報道された。しかし、握手をして何も言わなければ当然連行することを了解したものと見なされるだろう。握手をするより前にしなければならないことがあったはずだ。

大使館や領事館の人は常に敵となる可能性のある人と接しているという心がけが必要である。川口外相の答弁を聞いた現地の駐在員が、いつでも相手の国の人と仲良く握手をしていればいいのだと思ったらとんでもないことになる。

私が20年ほど前に行ったローマの日本領事館の門は、鉄製の扉が数メートル隔てて2重になっていて、その間に守衛所があり、両方の扉を同時に開くことはないので、外から敷地内はまったく見えず、まして駆け込みなどまったく不可能な構造になっていた。

亡命者やテロリストのことを考えたら、一般の来訪者には多少不便でも、大使館や領事館の門はすべてこうするべきである。大使館や領事館の門はある意味で「国境」なのだから、これくらいのことがしてあってもおかしくないはずだ。


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