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No.117                            酒 井 寿 紀                      2001/09/29


はじめにde facto standardありき

 

コンピューターの世界では標準仕様を定めた規格が重要である。ハード、ソフト各製品間のの相互接続が不可欠だからだ。この規格はどのようにして決まってきたのだろうか?

コンピューターの初期に入力媒体といえばパンチ・カードだった。これにはIBMの80欄のものとレミントン・ランドの90欄のものがあった。しかしやがて90欄のものは使われなくなり、カードといえば80欄のものになった。

オープン・リールの磁気テープには幅が1/2インチのもの、3/4インチのもの等あった。しかしこれはやがて1/2インチ幅のものに統一された。

80年代にはローカル・エリア・ネットワーク(LAN)として、イーサーネット、トークンリングを始めいろいろな種類のものがあった。トークンリングはIBMが開発したもので、技術的にも優れている点があった。しかしイーサーネットが普及すると他のものはみんな使われなくなってしまった。トークンリングはISOの規格の一つとして認められたがそれも無力だった。

これらの例はどれも、規格が決まったから各社がそれに従った、というものではない。市場の力学で標準仕様が実質的に決まったのである。規格は後からそれを追認したものにすぎない。「はじめにde facto standardありき」なのだ。弱肉強食の世界なのである。

こういう現実に逆らって標準仕様を決めようとした試みはどうなっただろうか?

60年代の末に、コンピュータ本体と周辺装置のインターフェースの標準仕様を決めようという試みがあった。日本のコンピュータ・メーカーの代表が集まってIBMのインターフェースに技術的改良を加えて「インターフェース69」という仕様を決めた。

しかし各社はこれを一般製品には採用せず、採用したのは当時の電電公社の自社用コンピュータであるDIPSだけだった。しかしこのDIPSも後には一般市場の周辺装置を使うようになり、IBMのインターフェースを使うようになった。

電電公社としてはいずれのメーカーからも距離を置いたニュートラルな仕様を採用したかったのだろうが、結局それは成功しなかった。

そして日本はこの「インターフェース69」をISOに採用させようと大変な努力を払った。しかし70年代の半ばになると、汎用コンピュータの世界ではIBMの仕様がde facto standardになり、周辺装置についても本体についてもIBMのプラグ・コンパティブル製品が現れ出した。もはやIBMと違うインターフェースを規格として採用することは意味がなくなった。市場の現実から遊離した努力は結局功を奏さなかった。

80年代の半ばに日本でTRONプロジェクトというものが始まった。これはITRON、BTRON、CTRONというOSの標準仕様、TRONチップというマイクロプロセッサの標準仕様等を決めようとしたものだった。

ITRONは機器組み込み用のOSの仕様で、現在でも日本ではかなり使われている。そういう意味ではTRONプロジェクトの中では最も成功したものと言える。しかし、この世界には各社独自の仕様のOSも多く、流通ソフトウェアの大きい市場があるわけでもないので仕様の標準化の意味はそれほど大きくない。

BTRONはビジネス用のOSの仕様で、いわばマイクロソフトのWindowsの対抗版を作るものだった。従ってBTRONが普及するということは日本にマイクロソフトに対抗できるソフトウェア・ハウスが何社もできるということだった。そんなことが難しいことは始めから明らかだった。

CTRONのCは元々はCentralのCで、データベース用やオンラインシステム用のOSとして考えられたものだった。現在の言葉で言えば、UNIXやWindows NTが使われているサーバー用のOSである。しかしこういう世界でCTRONが使われることはなかった。

そしてこのCはその後CommunicationのCに変わり、通信装置用のOSの仕様になってNTTが電子交換機等に採用した。やはりNTTとしてはメーカー色がないことが重要だったのだろう。

TRONチップは32ビットのマイクロプロセッサの仕様で、いわばインテルのマイクロプロセッサの32ビット版だった。従って、このプロジェクトが成功するということは、インテルに対抗できる半導体メーカーが日本に何社もできるということだった。従って、その難しさは始めから分かっていたはすだ。しかし、NTTが電子交換機等にこれを採用したため、日本の半導体メーカー各社は一時期競ってこのマイクロプロセッサを開発した。しかし、それも長くは続かず、やがてインテルに追い越されてしまった。

「TRONプロジェクトは人材を育てた」と言っている人もいるが、日本のメーカーに貴重な経営資源を分散させ、回り道をさせたことは否定できない。

80年代の末に私が会った、アメリカのコンピュータ業界のある人は、「日本のコンピュータ業界には理解できないことがある」と言っていた。そのひとつがTRONだった。

1988年にOSF (Open Software Foundation) というUNIXの標準版を開発するプロジェクトができた。IBM、HP、DEC等コンピュータ業界を代表する9社が参画していたので、ものになるのではないかと思われた。しかし結局各社の利害が対立して統一版UNIXの開発は中止になり、IBMはAIX、HPはHP-UX等、各社はそれぞれ自社独自のUNIXを使い続けることになった。強い者が弱い者を力で排除することはあっても、話し合いで統一を図ることは不可能に近かった。

市場の力学を無視してどんなに立派な規格を作っても、それは机上の空論に終る。「de facto standard」だけが規格になり得るのだ。ということは、製品より前に規格ができるということはあり得ない、ということでもある。

それがこの世界の現実であり、それは今後も変わらないだろう。


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