home > Tosky's Essays >

モーツァルトのメモ帳

・・・何故モーツァルトは35歳で死なねばならなかったか?

酒井 寿紀

モーツァルトについての疑問

私は「モーツァルト大好き人間」の一人だ。今から22年前の1998年に、モーツァルトの生誕地を訪れたいと、女房と二人でなかなか切符が取れないザルツブルク音楽祭に苦労して出かけたほどなので、勝手にその仲間に入れさせてもらっている。その時のことは、「オーストリア、チェコの旅(1)に記した。

「モーツァルト大好き人間」と言っても、音楽の専門的なことはほとんど知らないド素人である。しかし、モーツァルトについては前々から不思議に思っていることがいくつかある。

その第一は、生まれつき病弱だったわけでも、疫病にかかったわけでもないようなのに、何故35歳で死んでしまったのかということだ。

そして、当時からかなり高名であったと思われるモーツァルトが、なぜウィーンでの生活で窮乏をきたしてしまったのかということである。

以下はこれらの疑問について、ウェブの情報を調べた結果のメモである。従って、情報の信憑性については未確認のものも多いことをお断りしておく。

また、モーツァルトのごく一面についての話で、 その全体像をお伝えするものではないことを断わっておきたい。

 

ザルツブルクとウィーンは別の国だった

ザルツブルクはかつて独立した「国」だった

ザルツブルクはドイツとの国境に近いオーストリアの街で、ここからはドイツのミュンヘンへ行く方がオーストリアの首都ウィーンへ行くよりも遙かに短時間で行ける。30年以上前になるが、所用でミュンヘンに行った時、休日に駐在員の人にザルツブルクまで行きましょうかと聞かれたことを思い出す。その時は、ザルツブルクには行かず、ノイシュヴァンシュタイン(Neuschwanstein)の城を見に行ったが、ザルツブルクにも1時間半位のドライブで行けるようだ。

ザルツブルクの周辺地域は、10世紀頃まではバイエルン公国に属していた。つまりドイツの一部だったわけだ。しかし、ウィーンはバイエルン公国ではなかった。

そして13世紀にこのザルツブルク周辺の地域は「ザルツブルク大司教領(Prince-Archbishopric of Salzburg)」としてバイエルン公国から独立し、その長が大司教を務めるとともに行政の長も務めることになった。そういう意味では、この大司教はミニ・ローマ法王のようなもので、俗界・宗教界の両面で社会に君臨し、ローマ法王の直接の配下にあった。モーツァルト時代のザルツブルクの大司教はヒロニムス・フォン・コロレド(Hieronymus von Colloredo)という人だった。

なお、ザルツブルクのような「大司教領」は、ドイツ国内にケルン、マインツ、ブレーメン等、計6か所あったという(2)

ハプスブルク家のオーストリアができたのはザルツブルクの「国」ができた後だった

一方、ウィーンには15世紀以降ハプスブルク家が住み着き、16~17世紀のトルコとの激しい戦争を経て、ヨーロッパの文化の一中心として繁栄していった。

ザルツブルクが教会領を離れ、最終的にオーストリアの一都市になったのは1816年だという。それまでは両者は別の国だったのだ。

私が始めてザルツブルクとウィーンに行った時、両者の街の雰囲気がまるで違うのに驚いたことを前にも書いた(1)。ザルツブルクの街で見かける人は、長身、白皙、金髪、碧眼の人が多く、ドイツ人そのものだった。ところがウィーンに行くと、そういう人はわずかで、バルカン半島などから来たと思われる、人種もよく分からない人があふれている。

二つの都市がオーストリアという一つの国になってから約200年経った現在でさえこれだけ違うのだ。モーツァルトの時代にはその違いはさらに大きかったと思われる。

モーツァルトはザルツブルグの宮廷を解雇された

モーツァルトは1756年にザルツブルクで生まれ、幼い頃から音楽家であった父親に音楽の手ほどきを受けた。父親は早くから息子の天賦の才能に気付き、何とかして世に出るチャンスをつかませてやりたいと、モーツァルトが6歳から17歳の時にかけて、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア等を旅行して、各地の貴族等に演奏を聴いてもらった(5)。いわば、ステージ・パパの走りである。

その後1773年(17歳)にはザルツブルクに戻り、当時のザルツブルクのコロレド大司教に宮廷の音楽家として雇われることになった。しかしモーツァルトは、給料が安いこと、オペラを演奏する機会が少ないこと等に不満を感じ、他の都市での職を捜し続けた(5)

そして1781年、モーツァルトが25歳の時、ついに破局がきた。この年、ヨーゼフ2世の皇帝就任の式典に出席するコロレド大司教に伴って、モーツァルトはウィーンを訪れた。しかし、モーツァルトは式典に出席できず、召使いや料理人と一緒に別室で食事を取らされ、モーツァルトが目論んでいた式典出席者に演奏を披露する機会はなかった(5)

この他の時にも、ザルツブルクの外で活動することをコロレド大司教に禁じられ、モーツァルトはついにザルツブルクの宮廷を辞任することを決断した。しかし、それも許されず、モーツァルトはついに「尻を蹴られるようにして」宮廷を追放されてしまったという(5)。現代風に言えば「自己都合退職」でなく「解雇」である。

ザルツブルクからウィーンに引っ越すということは・・・

モーツァルトの時代にはザルツブルクとウィーンは別の国だった。ザルツブルクのコロレド大司教は神聖ローマ帝国のザルツブルク領の領主でもあり、帝国内の他の国王と同等の権力を持っていたのだろう。そのため、コロレド大司教に雇われていたモーツァルトがウィーン行きを希望したことは、「領民」が「国王」の意に逆らったわけであり、また宮廷の使用人が雇用者の意に反する行動をとったわけである。大司教にとっても、こういう行為を許せば、自身の統治能力を疑われることになり、他の領民や宮廷の使用人への示しもつかなくなる。そのため、致し方なくモーツァルトを「クビにした」のであろう。

モーツァルトの父親には、こういう行為が何を招くかが分かっていたため、息子のウィーン行きに猛反対したのだろう。

コロレド大司教がモーツァルトの音楽をどれだけ理解していたかは分からず、モーツァルトにももう少し「うまい」やり方があったかも知れないが、結果的に二人の関係は完全に壊れ、大変不幸な結果を招くことになった。

音楽家の就職活動

18世紀から19世紀にかけてのドイツやオーストリアの主な音楽家の就職活動やその結果を時代順に見てみよう。それらの中で、ウィーンに転居後のモーツァルトの行動はどういう位置付けだったのだろうか?

バッハは大教会に雇われていた

1685年に生まれたヨハン・セバスチャン・バッハは、1703年に学校を卒業するとすぐにヴァイマールの教会に雇われたという(3)。彼は高名な音楽家を何人も輩出しているバッハ家の出なので、職探しには困らなかったと思われる。

バッハはその後、1723年から1750年に死ぬまで、ライプツィヒの教会で音楽を指導していたそうだ(3)

こうして次々と転職できたのは、バッハ自身の評判が徐々に高まったせいもあるが、特に初期にはバッハ一族の名声による点が大きかったのではないだろうか?

ハイドンは大貴族のエステルハージ家に雇われていた

バッハより少し後のオーストリアでは、1732年生まれのハイドンが活躍していた。モーツァルトより24歳年長である。1740年にウィーンのザンクト・シュテファン教会の合唱団員に選ばれ、そこで9年間過ごしたという。その後、変声期を迎えて合唱団をクビになり、しばらくフリーランスの音楽家だったが、幸いにして1761年にエステルハージ家のカペルマイスター(Kapellmeister:音楽に関する業務の総監督)になることができた(4)

エステルハージ(Esterhazy)家というのは、当時ハプスブルク家の支配下にあったハンガリーの大貴族で、その領土は現在のハンガリーとオーストリアにまたがり、当時ハプスブルク家で最大の領主だったという。ハイドンはそこで1790年まで実質的にカペルマイスターとして勤め、その後はイギリス等に旅行したが、名目的には同職にあり続けた(4)。音楽家として社会的にも認められ、幸せな一生を送ったようだ。

ハイドンは1784年頃初めてモーツァルトに会ったと言われる。レコードもCDもない時代なので、その時初めてモーツァルトの音楽を聴いたのだろう。 その後二人は親しくなり、時々一緒に即興で弦楽四重奏を演奏したという。モーツァルトはハイドンを尊敬していたようで、1785年に出版した6曲の弦楽四重奏をハイドンに捧げている(5)

モーツァルトの父親は、1785年にモーツァルトの姉に出した手紙に、ハイドンから次のように言われたと書いている。「神に誓って、あなたの息子さんは、今までに直に会ったり聞いたりした人の中で最高の作曲家です。優れたセンスと作曲技術の持ち主だ」 またハイドンは、「今後100年間、このような才能の持ち主がまた現れることはないだろう」とも書いている(5)。ハイドンはモーツァルトの生前に彼の力を最も正当に評価していた人のようだ。

 ハイドンはモーツァルトの死後、その二人の息子の教育を無償で引き受けたという(4)。 このように、二人は良好な関係にあったようだが、いざ雇用となると、ハイドンにも弟子や縁者の就職希望者が多く、話は別だったのではないかと思う。

ハプスブルク家ではサリエリが君臨していた

モーツァルトの時代には、 ハプスブルク家の宮廷ではイタリアのオペラが流行し、アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri)が活躍していた。サリエリは1750年生まれのイタリア人で、1766年に先輩の作曲家に連れられて初めてウィーンに来た。そして、ヨーゼフ2世による室内楽のコンサートに出演したという(6)

1774年に宮廷のイタリア・オペラの監督に任命され、それは1792年まで続いた。そして、1788年には宮廷の教会のカペルマイスターに任命され、死の前年の1824年まで務めたという(6)

サリエリは1784年頃、オペラの仕事で初めてモーツァルトと顔を合わせたという(6)

また、 サリエリは教育にも力を入れ、リスト、シューベルト、ベートーヴェン等にも影響を与えた(6)

サリエリと言えば、映画「アマデウス」ではモーツァルトを毒殺した犯人にされた人だが、当時のオーストリアでは長年にわたって音楽家としての最高の地位を占めていた人である。

この人にも、多くの弟子や縁者が我も我もとポストを求めて押し寄せるので、モーツァルトのような「外国人」が入り込む余地はあまりなかったのではないだろうか? 

モーツァルトの就職活動

モーツァルトは、1762年、6歳の時に父親に連れられてウィーンに行き、シェーンブルン宮殿の鏡の間でマリア・テレジアの前でピアノを弾いた。その時の絵が残されている(7)。弾き終わると女帝の膝に飛び乗って抱き着き、キスしたそうだ(5)

モーツァルトは6年後の1768年にもウィーンの宮殿での演奏を許されている。従って、マリア・テレジアは何回かモーツァルトの演奏を聴いているはずだが、その印象は必ずしもよくなかったようだ。

1771年にマリア・テレジアの息子の一人のフェルディナントがモーツァルトを雇いたいと言ったところ、彼女は「"useless people"を雇って財政的負担を増やすべきではない。彼らは乞食のように世界中を歩き回って職を求めている」と、それをいましめる手紙を書いている。そのため、フェルディナントはモーツァルトの採用を諦めたという(5),(8),(9)

マリア・テレジアの反対の理由が、モーツァルトの音楽の価値を解さなかったためか、初対面の6歳のモーツァルトの態度が気に入らなかっためか、戦争続きで疲弊したオーストリアの財政状況の厳しさを息子に伝えたかったためかは分からない。これらの理由が合わさっていたのかも知らない。当時宮廷にはカペルマイスター以下の音楽の体制が整っていて、そこにモーツァルトを加える必要性を感じなかったためもあるかも知れない。

国を統治するには、政治や軍事が最重要事項で、音楽は所詮、戴冠式や葬式、各種の祝典等に必要な二次的なもので、これらの行事が無事に進められれば、芸術性や先進性はそれほど重要ではないというのが女帝の考えだったのかも知れない。一国の君主としては至極当然なことである。音楽は世界一だが戦争に負けてしまっては国民はたまったものではない。

マリア・テレジアの時代のウィーンには、16世紀から17世紀にかけて2度にわたってトルコ軍に攻め込まれた時に築かれた頑丈な城壁がまだ残っていた。これが取り壊されて現在の「リング通り」(Ringstrasse)という幅広い環状道路になったのは1857年である。彼女の時代には血なまぐさい戦いの傷跡がまだ多く残っていたのではないかと思われる。彼女はこうした厳しい現実を子供たちに伝える必要性を感じていたのかも知れない。

これだけ明確に強く反対したということは、同じことを、長男のヨーゼフ2世や、その弟で兄を継いだレオポルト2世にも伝えていたと思われる。たとえ女帝自身が直接言わなくても、その考えは息子たち全員に伝わっていたであろう。

ヨーゼフ2世はモーツァルトの大の称賛者として知られ、モーツァルトを最初に女帝に紹介したのも彼だと言われている。しかし、モーツァルトが多少ともハプスブルク家の音楽の職に継続的に付けるようになったのは、彼が1780年にマリア・テレジアから帝位を継承してから7年後の1787年だという(5)。女帝の死後7年間は、彼女の遺訓に縛られていたようだ。

しかし、女帝がモーツァルトの音楽的才能を充分に理解していなかったことは確かなようだ。

こうして、ウィーンに来てから死ぬまでの10年間は、モーツァルトは主としてフリーランスの仕事に頼らざるを得なかった。そして、コンサートの客も徐々に減り、モーツァルトは借金を重ねていったという(5)

ベートーベンにはルドルフ大公がいた

1770年に代々音楽家の家に生まれたベートーヴェンは、早くから父親のスパルタ教育でしごかれた。

その効あって、11~12歳の頃作曲した3曲のピアノ・ソナタをケルンの選帝侯マクシミリアン・フリードリヒに捧げている。この人がベートーヴェンの最初の雇用者だった。そして、その後継者であるマクシミリアン・フランツもベートーベンを宮廷のオルガン奏者に任命し、1792年にウィーンへ行く際の費用を負担したという(10)

ウィーンではハイドン、サリエリ等の指導を受けたそうだ。

その後、ベートーヴェンはリヒノフスキー侯爵の支援を受け、侯爵に7曲を献じている(11)

当時ヨーロッパで暴れ回っていたナポレオン軍から1808年に高給で雇用するという提案を受けたが、ルドルフ大公等がそれに対抗する提案をしたため、ベートーヴェンはウィーンに止まることになったという(10)

ルドルフ大公(1788-1831)は皇帝レオポルト2世の息子(つまりマリア・テレジアの孫)で、大の音楽好きで、1803~1804年頃からベートーヴェンにピアノと作曲を習い、彼のスポンサーになったという。べートーヴェンは、ピアノ3重奏「大公」、ピアノ・コンチェルト「皇帝」、ピアノ・ソナタ26番「告別」等14曲をこの大公に捧げている(12)。(なお、ピアノ・ソナタ26番の原題は "Les  Adieu"で、ナポレオン軍に攻め込まれた大公が一時的に転居した時の「別れ」なので、日本語の題名の「告別」はあまり適切ではない)

1771年にマリア・テレジアがモーツァルトの支援に大反対したので、彼女の息子のヨーゼフ2世、レオポルト2世、フェルディナントは、女帝の死後もその遺訓にしばらく縛られて、音楽家の支援を遠慮していたのではないかと思う。ルドルフ大公は女帝の孫だが、直接面識がなく、自身はハプスブルク家を離れた人間なので、あまり祖母の遺訓に縛られることはなかったようだ。

 

シューベルトは楽友協会に助けられた

ウィーンの郊外で1797年に生まれた フランツ・シューベルトは、1808年にウィーンの中心部にあった「シュタットコンヴィクト(Stadtkonvikt)」という国立の寄宿舎のようなものに入り、宮廷の合唱団の歌手を務めるとともに音楽の勉強をした。ここの成績は皇帝に報告されたという。ここに1813年までいて、1814年には父親が校長をしていた学校の助手になったという(13)

こういう国立の教育機関ができたことは、音楽家の人材の情報が一か所に集まり、音楽家間のネットワークが構成されることに貢献しただろう。

シューベルトは1804年にサリエリに音楽の才能を認められ、1817年まで作曲法等を教わったという(14)

1812年にウィーンに "Gesellschaft der Musikfreunde"(直訳すれば:音楽の友の会)という組織が作られた。これは "Musikverein"とも呼ばれ、現在の同名の団体・建物の母体だという。日本語では「楽友協会」と呼ばれているが、これはドイツ語の古い名前から名付けられたのだろう。

その古い建物はシュテファン広場の北の旧ウィーン城壁内にあったが、1870年に旧城壁の南の現在の位置に建て直された。大きなコンサートホールで、現在でも毎年、年末年始にニュー・イヤー・コンサートが開催され、日本を含め全世界にテレビ中継される。私はここで、20年以上前に、昔のコスチュームを着て演奏する観光客向けのコンサートを聴いたことがある。

こういう音楽家と聴衆を結びつける仕組みが作られたことで、一般市民がカネを払えば自由に音楽を聴いたり、オペラを観たりできるようになり、音楽家は特定の宮廷や貴族に雇われなくても生活できるようになった。これは、その後の音楽の発展に絶大な恩恵をもたらしたと思われる。音楽が王侯貴族や教会の手を離れて、独自の進歩を遂げられるようになったのだ。

1821年に、 シューベルトはこの団体に演奏者としての加入が認められた。そして彼の曲の演奏の機会はどんどん増え、聴きにくる会員の評価が高まっていったという(14)

ウィーンの楽友協会に続いて、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール、パリのオペラ座等の大コンサート・ホールが続々と建設され、音楽の普及に大きく貢献した。

モーツァルトは早く生まれすぎた?

モーツァルトのウィーンでの生活が10年間で行き詰まってしまった要因はいろいろあるだろう。

モーツァルトは ハプスブルク家の力にすがろうとしたが、マリア・テレジアに反対され、その遺訓は彼女の死後もしばらく子孫を縛っていたと思われること。

モーツァルトが就職活動の対象をハプスブルク家に絞り過ぎたこと。

モーツァルトが、収入が減っても生活レベルを維持し続けようとしたこと。つまり彼には「入るを量りて、出ずるを制する」という考えがなかったこと、等々である。

モーツァルトの生前にもし「楽友協会」のような仕掛けができていたら、彼の後半生は別のものになっていたかも知れない。しかし、こういう「もし」を言ってみたところで、所詮しかたがないことだ。モーツァルトの時代は、まだまだ「寄らば大樹の陰」の時代だった。それが変わりだしたのは19世紀に入ってからだ。

人間は誰でも、たまたま生まれてきた時代と場所に合わせて生きていくしかないのだ。それが例え、戦争の真っ只中であろうと、疫病の大流行のさ中であろうと、天災の直後であろうと同じことである。 そういう意味では、モーツァルトの生活が行き詰った責任の多くは彼自身にあったと言うしかない。

モーツァルトはあまりにも純粋な芸術家であり過ぎたようだ。後世に何を残せるかは別にして、幸せな一生を送るためには、人間には「俗物性」が欠かせないようだ。

 

[関連記事]

(1) 酒井 寿紀、「オーストリア、チェコの旅」、Tosky World、1999年7月

(2) "Prince-bishop", Wikipedia(英文)

(3) "Johann Sebastian Bach", Wikipedia(英文)

(4) "Joseph Haydn", Wikipedia(英文)

(5)  "Wolfgang Amadeus Mozart", Wikipedia(英文)

(6) "Antonio Salieri", Wikipedia(英文)

(7) "The young Mozart is introduced to Empress Maria Theresa by Joseph II ”, kunst für alle

(8) "In Mozart's Words", the Digital Humanities Institute, the University of Sheffield 

         --- "Wolfgang Amadeus Mozart"/"Early years to 1773" 内に記述がある

(9)  "useless-people", Lapham's Quarterly

(10) "Ludwig van Beethoven", Wikipedia(英文)

(11) "Karl Alois, Prince Lichnowsky", Wikipedia(英文)

(12) "Archduke Rudolf of Austria",  Wikipedia(英文)

(13) "Stadtkonvikt - Vienna", aeiou, the Austrian Ministry of Education, Science and Culture

(14) "Franz Schubert", Wikipedia(英文)

 (完) 2020年9月24日


Copyright (C) 2020, Toshinori Sakai, All rights reserved